「村上武吉」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「村上武吉」の死に際とは?日本の人物

「日本最大の海賊」とも称される「村上水軍」を率いた戦国武将「村上武吉」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「村上武吉」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「村上武吉(むらかみ たけよし)」とは?簡単に説明

「村上武吉」は瀬戸内海で活動していた「村上水軍」を率いていた戦国武将です。

「村上武吉」が当主となった後の「村上水軍」は、船を襲って積荷を強奪するという海賊行為を辞め、逆に船を他の海賊から警護するという名目で通行料を徴収していました。

これにより、「村上武吉」の一族は最盛期を迎えることになります。

やがて、「村上水軍」は毛利氏勢力として取り込まれていき、「毛利水軍」として「織田信長」と 戦いを繰り広げていきます。



「村上武吉」の晩年と最期

「本能寺の変」の後、毛利氏は「信長」の後を継いだ「秀吉」と和睦します。

「村上武吉」は占領した来島の返還や四国攻めへの参加を拒否したことにより、「小早川隆景(こばやかわ たかかげ)」より本拠地の能島を攻められます。

能島を追われた「村上武吉」は、「隆景」の所領である竹原へと移されました。

その後は、「隆景」に付き従い筑前国(現在の福岡県西部)へ、毛利家臣として取り立てられてからは長門へ移り、再び竹原へと戻っています。

慶長5年(1600年)に「関ケ原の戦い」が起こると、「村上武吉」も毛利氏に従い、西軍に与しました。

この戦にて、伊予・松前城を攻めるも、「三津浜夜襲」を受け、嫡男「元吉(もとよし)」が討死しています。

戦後に毛利氏は減封に処され、「村上武吉」は竹原を離れることになり、「村上水軍」も壊滅してしまいました。

その後は、周防国(現在の山口県東南半分)和田に移住し、「村上武吉」の一族は朝鮮通信使の警護などに当たることになります。

そして、慶長9年(1604年)の8月22日、享年72歳で死去しました。



「村上武吉」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

「村上武吉」にまつわるエピソード

最後に「村上武吉」にまつわるエピソードをご紹介します。

日本最大の海賊

宣教師であり、「(フロイス)日本史」の著者でもある「ルイス・フロイス」「村上武吉」「日本最大の海賊」と評しています。

文化人でもあった「村上武吉」

「村上武吉」は多くの連歌を残しており、また、団結を促すために多くの連歌会も開いていたと云われています。

「海賊」ということで、ワイルドなイメージが連想されますが、文化人としての一面も持っていたようです。

まとめ

「村上武吉」は日本最大の海賊とも言われた「村上水軍」を率いていた戦国武将です。

「村上武吉」が当主となった後、「村上水軍」は毛利氏勢力に取り込まれ、海戦の要を担いました。

「関ケ原の戦い」の敗北により、毛利氏が改易に処されると、「村上武吉」は周防大島へと移り住み、慶長9年(1604年)8月22日に死去します。

享年72歳でした。

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