「橋本真也」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「橋本真也」の死に際とは?日本の人物

新日本プロレスの闘魂3銃士として人気を博したプロレスラー橋本真也は40歳という若さで亡くなりました。

今回はその死因などについて詳しく解説していきます。

「橋本真也」とは?簡単に説明

昭和40年に岐阜県土岐市で誕生した橋本真也は、新日本プロレスの人気プロレスラーとして知られる人物です。

幼いころからプロレスラーアントニオ猪木に憧れていた橋本は、当時から同年代の中では立派な体格を誇り、学生時代から柔道を始めて、その格闘センスに磨きをかけていました。

昭和59年4月に新日本プロレスに入門した橋本は、学生時代に励んでいた柔道のおかげで身体が既にできあがっていたことにより、早くも同年にデビューを飾っています。

橋本の新人らしからぬ怖いもの知らずのレスリングスタイルは、若手の頃から対戦相手から恐れられており、破天荒で何をするかわからない奴という意味である「トンパチ」というあだ名が付けられていました。

期待されている若手が通る道である海外遠征を経て、アントニオ猪木の直径弟子として組まれたユニットである「闘魂3銃士」のひとりに抜擢された橋本は、このころから新日本プロレスのエースとして活躍し始め、「破壊王」というキャッチフレーズで多くのファンから愛されていました。

その後、新日本プロレスから独立した橋本は、プロレス団体ZERO-ONEを立ち上げ、順調に集客数を伸ばしていきますが、平成17年7月11日、横浜市内の滞在先において脳幹出血を発症したことにより、その後搬送先の病院で40歳で死亡しています。



「橋本真也」の死に様

平成17年7月11日の朝方、橋本真也は横浜市内の知人宅において脳幹出血を発症して、倒れてしまいます。

救急車で横浜市内の病院に搬送された橋本でしたが、搬送中に既に心肺は停止し、そのまま亡くなってしまいます。

試合中に負った右肩の負傷や、長年の闘いによる膝などの故障については広く知られていたものの、40歳で亡くなってしまうほどの持病などについては当時あまり語られておらず、睡眠時無呼吸症候群が遠因かもしれないなどと囁かれていました。

負傷した右肩については、負傷した際に9時間半にもおよぶ大手術を敢行して成功しており、その後はリハビリに励み、動かせなかった肩が上がる程度にまでは回復していたそうです。

このリハビリを乗り越えてリングに復帰することを待ち望んでいた多くのファンや関係者は、彼の突然の死をなかなか受け入れることができませんでした。



「橋本真也」の死に様の信憑性

橋本真也が知人宅で倒れる前の日の夜、プロレス団体ゼロワンの代表中村氏の携帯電話に橋本からのメッセージが残されていました。

その伝言には「頭が痛い。

病院の診察券がみつからないが、持ってるか?病院の場所を教えてくれ」
という内容でした。

そのため中村氏は、同日の未明に一旦、橋本と共に都内の病院に診察に向かいますが、その際には異常は発見されす、診察後に横浜の知人宅に引き返していました。

しかしながら、橋本が知人宅に戻った数時間後には、脳幹出血を発症したことにより心肺停止状態で死亡してしまいます。

長年に渡るプロレスでの闘いにより、身体中にできた傷や負傷は多くのファンに知られていた橋本でしたが、その裏ではプロレス団体運営による借金問題や、夫婦間のいさかいによる家庭内のトラブルなど、心身ともに衰弱せざるを得ない要因が多々あったと言われています。

「橋本真也」の小ネタ等

そのチャーミングな体型と愛らしい風貌から、プロレス界の「渡辺徹」と呼ばれて親しまれてきた橋本真也は、亡くなった当時は妻ではない女性の家で過ごしていました。

この女性の元夫は元プロレスラーの故サムソン冬木であり、当時妻子を持っていた橋本が死亡したのは、この元同業者の妻であった不倫相手の自宅でのことでした。

まとめ

「破壊王」と呼ばれ、数多くのファンに親しまれてきたプロレスラー橋本真也の遺伝子は、現在は息子であるプロレスラー橋本大地に刻みこまれています。

父親とうり二つの彼の佇まいを見ると、破壊王が生き返ったのではないかと錯覚するほどで、息子の「破壊王子」という愛称も板についてきました。

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