「幸徳秋水」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「幸徳秋水」の死に際とは?日本の人物

幸徳秋水は明治時代の社会運動家で、大逆事件で検挙され死刑を宣告されました。

幸徳秋水の晩年や最期はどのようなものだったのか紹介します。

幸徳秋水とは?

幸徳秋水は高知県の生まれで、非常に聡明な子どもであったといわれています。

自由民権思想の影響を受け、上京して中江兆民の門弟となります。

本名は傅次郎といいましたが、中江兆民から秋水という名前を贈られました。

新聞記者として活躍し、社会主義運動に携わります。

社会民主党結成しましたが、即日禁止となりました。

平和主義や社会主義を掲げ平民新聞を刊行しますが、新聞紙条例違反に問われ入獄します。

そこでロシアの思想家クロポトキンを知り、無政府主義者になりました。

幸徳秋水の晩年

幸徳秋水は1905年に渡米し、サンフランシスコに赴きます。

そこで労働組合運動を重視する社会主義の一派であるアナルコ・サンディカリスムの影響を受けました。

帰国すると、ゼネラル・ストライキによる直接行動論を提唱します。

この実力行使を訴える秋水の行動は、官警に目をつけられることになりました。

1909年には自由思想を発刊しますが、即日禁止になります。

幸徳秋水の最期

幸徳秋水は、内縁の妻であった管野スガと湯河原に湯治に訪れていました。

そこでスガと共に逮捕されてしまいます。

大逆事件と呼ばれるもので、社会主義者や無政府主義者を逮捕して起訴し、刑を下した政治的な弾圧事件の1つです。

幸徳秋水事件とも呼ばれており、幸徳秋水は明治天皇の暗殺を計画したとして死刑を宣告されました。

秋水が労働者に直接行動論を訴えたことが、暗殺計画と結びつけられたといわれています。

秋水が暗殺計画に関わったという直接的な証拠はありませんでしたが、有罪・死刑判決を受けた数日後に刑が執行されています。

幸徳秋水の死に関して

幸徳秋水の死後、様々な資料が発見され、大逆事件は国家による捏造であったことが判明しています。

秋水は明治天皇の暗殺計画には関わっていなかったのに、逮捕され死刑になってしまいました。

大逆事件は社会主義者を一掃するために捏造されたのです。

幸徳秋水をめぐる逸話

大逆事件で幸徳秋水と共に処刑された人物の一人に、修水と一緒に逮捕された管野スガがいます。

スガは秋水の内縁の妻ですが、二人が恋愛関係になった時にはお互い既婚者でした。

スガには荒畑寒村という夫がおり、幸徳秋水にも千代子という妻がいます。

二人の関係は、秋水とライバル関係にある新聞社によってスキャンダラスに書き立てられました。

そこで秋水は妻と離婚し、スガも夫に一方的に離婚届を送りつけて離婚しています。

まとめ

幸徳秋水は社会主義運動家で、無政府主義者として積極的に活動していました。

大逆事件によって逮捕され、死刑の宣告を受けます。

明治天皇の暗殺を計画したという理由でしたが、現在では国家による捏造であったことが分かっています。

死刑判決を受けた数日後に刑が執行され、亡くなっています。

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