世間を大騒ぎさせた講談社・フライデーとの対決「景山民夫」の散り際とは?
この記事では景山民夫の晩年と散り際について解説します。
「景山民夫」とは?簡単に説明
1970年代から放送作家として活躍。
一世風靡した『11PM』『クイズダービー』など全盛期の「大橋巨泉」氏の番組に携わり、その後もヒットメーカーとして多数の番組を手掛けます。
また80年代末期からは作家としての実績も積み上げ88年には『遠い海から来たCOO』で直木賞を受賞しています。
「景山民夫」の晩年
晩年は幸福の科学に入信しており、『講談社フライデー事件』はあまりに有名。
その理由は被害者の会を起ち上げて、会長に就任。
元々「萩本欽一」氏批判などで毒舌は有名でしたが、この件ではそれに輪をかけてパフォーマンスも見せています。
これらによりマスコミ各社から敬遠されますが、同時に旧知の著名人も一線をひくこととなりました。
「景山民夫」の死に様
1998年1月26日の深夜に自宅三階の書斎から出火。
救助され、緊急搬送されるも一酸化炭素中毒から蘇生することは叶いませんでした。
50歳没。
救助された際にはパンツ一丁で髪の毛は濡れていたようだとも報道されています。
趣味のプラモデル作成時の事故で煙草の火が気化したシンナーに引火したようです。
「景山民夫」の死に様の信憑性
プラモデル作成時に接着剤から気化したシンナーに引火という発表に関して疑問点を持つ方もいるでしょう。
プラモデル作成時に火気厳禁は当たり前なのに、不自然だという意見も見られます。
喫煙に関しては、プラモデル製作は少年時代からの趣味であり、そこに慣れ、油断があったのかもしれません。
また火気厳禁と言ってもいわゆるウェザリング、ダメージ表現をする場合に線香やハンダゴテで熱処理する場合があります。
景山氏の作っていた模型のサイズにもよりますが、喫煙目的ではなく煙草を使用したのかもしれません。
その一方で死亡時にパンツ一丁だったと報道もありますが、こちらに関しては元々潔癖症でよく知られており、プラモデル作成時の習慣であったことで警察の見解も一致しています。
顔は煤けていなかったとされますが、一酸化炭素中毒で高濃度のものを吸って意識が無くなってしまった可能性が高いといえるでしょう。
3階の自身の書斎のみの火災だと言われており、それほど燃え広がらなかったもの、煙を吸い込んでしまったのが致命傷となったようです。
ただし報道に関しては景山氏が表舞台に登場しなくなった経緯も含めて、公表されていない部分も多く残り、謎の部分も多いのが現実です。
まとめ
1998年1月26日深夜に永眠。
死因は一酸化炭素中毒によるものでした。
50歳没。
パンツ一丁で救出されたことから様々な憶測が飛び交いますが、常習的なものだと判明しています。
検死内容は公表されていません。