「阿部正弘」とは?阿部正弘の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「阿部正弘」とは?簡単に説明
備後国福山藩の第7代藩主だった阿部正弘は、1853年にペリー艦隊が浦賀に来航して高圧的に求めてきた開国要求に対して老中首座として対応し、翌1854年に日米和親条約の締結を決め、開国への道を決定した人物です。
この外交問題について正弘はこれまでの慣例を破って諸大名に意見を聞いたり、有能な大名の幕政参画、有能な人材の要職登用など積極的な人材登用や国防政策を実施しました。
正弘が取り組んだこの改革は「安政の改革」と呼ばれでいます。
「阿部正弘」の晩年
老中首座として安政の改革に取り組む正弘でしたが、幕政に発言力のなかった親藩、外様大名に広く意見を求めたことから有力大名の政治介入を招くことになります。
また、幕府内部でも開国派と攘夷派が対立するなど風雲急を告げる中、幕府内で孤立することを恐れた正弘は老中首座の地位を堀田正睦に譲ります。
しかし、実権は依然として正弘に委ねられ、改革は続行されるのでした。
こうした外患に加え、13代将軍徳川家定の後継を巡る、いわゆる将軍継嗣問題という内憂も表面化し、正弘の重責が頂点に達した1857年(安政4年)に正弘は急死するのでした。
「阿部正弘」の死に様
阿部正弘は安政4年6月17日(1857年8月6日)に老中在任のまま江戸で亡くなります。
享年39。
あまりにも若すぎる死でした。
それゆえ、死因に関してはさまざまな説があります。
まず、激務からの過労死説、肝臓がんあるいは糖尿病による病死説、安政の改革に不満を抱く譜代大名による暗殺説や女遊びによる腎虚説といったものまであります。
正弘の体格ですが、相当な肥満体質で長時間正座していると畳が汗で湿っていたと幕臣の木村芥舟が伝えています。
そんな肥満だった正弘も死の直前は下痢のために激やせしていたようです。
「阿部正弘」の死に様の信憑性
阿部正弘の死は急死ではありますが、福山藩の藩医である伊澤伯軒が治療し、最後は看取っていることから暗殺によるものではないでしょう。
また、肥満体質という体型からみて外見で女性にモテたとも考えにくいですし、そもそも過労死説が出るくらい激務だった正弘に女遊びをする暇があったとは思えません。
そうなると、過労死を含めた病死が死因というのが最も妥当な説と言えるでしょう。
正弘は毎日2升以上のお酒を飲む酒豪だったと言われており、肝臓を悪くする要因を抱えています。
また当時の激務の状況から過度のストレスがんを誘発したとも考えられます。
死の直前は激やせしていたとの証言からも死因はがんという見方が有力です。
なお、海防掛の川路聖謨によると正弘の日々の睡眠時間は2時間だったそうですので、過労死説も捨てきることができません。
確たる病名は分かりませんが、病死というのが最も信憑性の高い死因で、その中でも肝臓がんが最有力でしょう。
まとめ
阿部正弘の病名は確定できないものの、病に斃れたというのが最終的な推測です。
正弘の幕府最大の危機時における献身的な活躍は素晴らしいもので、彼の若すぎる死には残念でしょうがありません。
もし長寿を全うできていれば、日本のさらなる発展に貢献していたものと思われます。