平賀源内は学者・医者・戯作者・発明家など色々な一面を持ち合わせていた人物です。
平賀源内の晩年や最期について紹介します。
平賀源内とは?
平賀源内は高松藩の出身で、本草学や儒学、医学、オランダ語、油絵、漢学などを学びました。
父の跡を継いで高松藩に仕え、長崎で学んだこともあります。
しかし、その後家督は放棄して江戸へ出ます。
本草学者の元に弟子入りし、師匠である田村藍水と共に薬品会を開催するなどしています。
この薬品会の開催によって、江戸で名前を知られるようになりました。
老中だった田沼意次にも知られていたようです。
また、ヨーロッパから輸入された機械を運用してみたり、石綿の製造を行うなど様々な活動を行いました。
平賀源内の晩年
平賀源内は、長崎で手に入れたとされる壊れたエレキテルを修復しています。
エレキテルは静電気を生み出す装置で、オランダで発明されました。
それが日本に入ってきたのです。
オランダでは医療器具として使われたほか、見世物としても用いられました。
日本は当時鎖国をしていたので、そのような装置は非常に珍しいものだったことが考えられます。
平賀源内は修理した後に、模造品も製作して大きな話題を集めました。
ただし、本人はエレキテルの仕組みについて、よく知らなかったといいます。
その時のエレキテルは現在、国の重要文化財として博物館に所蔵されています。
また、蘭学者として外国の技術や文化を紹介したり、源内焼と呼ばれる焼き物を生み出すなど多彩な才能を発揮しています。
しかし、平賀源内の才能はなかなか周囲に受け入れられず、晩年はすさんだ生活を送っていたともいわれています。
平賀源内の最期
大名屋敷の修理を請け負った際に、大工の棟梁とトラブルを起こします。
些細なことから口論となり、二人を殺傷してしまったのです。
平賀源内は投獄され、そのまま病を患って死亡してしまいました。
52歳で亡くなっています。
死因は、破傷風を患ったものといわれています。
作家としての平賀源内
平賀源内は、滑稽本や浄瑠璃などの創作活動も行っていました。
「風流志道軒伝」や「神霊矢口渡」といった作品を執筆しています。
「風流志道軒伝」は、当時実在した講釈師を主人公とし、異国をめぐる中で世の中を風刺した作品となっています。
「神霊矢口渡」は江戸浄瑠璃を代表する作品で、新田義興が亡くなった後に義興の弟と家臣たちが新田家を再興する物語です。
浄瑠璃では時代物を手掛けることが多かったといいます。
平賀源内の功績
平賀源内が刊行した「物類品隲」は、薬品会に出品したものの中から主要なものを選んで解説を加えた博物学書になります。
これは日本博物学史上において、とても画期的だったと評価されています。
まとめ
平賀源内は多方面で才能を発揮し、発明をしたり浄瑠璃や談義本の創作活動も行っていました。
しかし、周りにはその天才ぶりが受け入れられないことが多く、晩年はすさんだ生活を送っていたともいわれています。
人を殺傷してしまい、投獄された後に病死しました。