「小林一三」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「小林一三」の死に際とは?日本の人物

「小林一三(こばやしいちぞう)」とは?

小林一三の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「小林一三」とは?簡単に説明

小林一三は阪急電鉄の創始者として有名な実業家です。

また、電車通勤や駅と百貨店の直結を実現し、住宅ローンを考案し、後の宝塚歌劇団となる少女歌劇を始めるなど、日本初となるビジネスアイデアを数多く考案し、現代につながる日本人の生活スタイルを大きく変えました。

関西財界の雄・五代友厚と並び称され、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一にも引けを取らないほどの活躍をした人物でもあります。



「小林一三」の晩年

小林は死の前年の夏から心臓を悪くし、一進一退の状態を繰り返していました。

それでも調委sの良い時期もあり、そんな時は上京することもあったそうです。

しかし、弱った心臓への過度な負担が心配され、時に笑った拍子に心筋梗塞を起こす危険が懸念されるようになります。

そのため、小林を笑わせることは一切厳禁とされました。



「小林一三」の死に様

1957年(昭和32年)1月25日午後11時45分、大阪府池田市の自邸において急性心臓性喘息のため、小林は急逝します。

享年84。

告別式1月31日、本人の生前の希望により宝塚大劇場において宝塚音楽学校葬として行われました。

宝塚歌劇団の生徒のほか、財界、興行関係者など3千数百人の人が参列して執り行われたそうです。

「大阪中のタクシーが宝塚に集まったのではないか」と言われるほどのタクシーの台数が集まり、いかに参列者が多かったかということが伺われるエピソードです。

弔辞は石橋湛山内閣総理大臣の代理・平井太郎郵政大臣と天津乙女が読みました。

死の翌年、池田市五月山山麓の大廣寺に葬られます。

この寺は応永年間(今から600年ほど前)に創設された古刹で、代々池田氏の菩提寺でした。

この閑静な境内の奥に小林は妻コウとともに眠っています。

「小林一三」の死に様の信憑性

渋沢栄一や五代友厚にも引けを取らないほどの活躍をした小林一三ですが、日本経済の発展にそれほど貢献したにもかかわらず、当時の小林の新聞での訃報記事の取り扱いは驚くほど小さかったようです。

わずか五、六百字程度の記事で、小林の貢献の大きさとは比べ物にならなかったそうです。

このことからも良くも悪くも小林の死に関する疑惑はないようです。

まとめ

関西財界の雄・小林一三の死に様について書きましたが、この小林一三、あの元プロテニスプレイヤーで現在タレントの松岡修造の曽祖父としても有名です。

これを聞くとちょっと身近な人物に感じられますね。

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