渥美清の本当の死因は?
「渥美清」とは?簡単に説明
渥美清こと田所康雄は、昭和3年に現在の東京都台東区である東京府東京市で生まれたコメディアンです。
俳優や演歌歌手としても活躍しており、名画「男はつらいよ」シリーズの主人公「寅さん」として数多くの人たちに親しまれてきました。
男はつらいよの舞台になった葛飾区の柴又駅前には、車寅次郎の銅像が建てられており、死後、国民栄誉賞も受賞しています。
終戦の年に中学校を卒業しますが、同年の3月10日には東京大空襲で自宅が被災し焼けてしまっており、卒業後には、工員として働きだしますが、同時期に担ぎ屋やテキ屋の手伝いをしていたこともあり、これらの経験が後の「車寅次郎」の演技の源になっていたそうです。
10代のころには一時期船乗りを目指しますが、母親の猛反対により断念し、知り合いのツテで旅回りの演劇一座に入団します。
ここから喜劇俳優への道を歩みだした田所康雄は、この時期に「渥美清」という芸名で活動を始めます。
その後、舞台の幕引きや下働きを経て、少しずつ舞台にも出演するようになり、昭和26年には東京浅草のストリップ劇場「百万弗劇場」の専属コメディアンとして起用されるようになります。
順調にキャリアを重ねた渥美清は、昭和43年にテレビドラマ版「男はつらいよ」に出演したことを契機に、主演の車寅次郎役として、27年間で合計48作に出演するほどの日本を代表する役者となっていきました。
順調すぎると言ってもよい役者生活でしたが、平成元年ごろから体調を崩し、男はつらいよ42作目以降は撮影もままならない状況が続き、平成3年に肝臓癌が見つかり闘病の末、平成8年に68歳で亡くなってしまいます。
「渥美清」の晩年
渥美清が体調を崩し始めた平成元年には、すでに男はつらいよの第42作目の撮影が始まっており、体調が優れない彼に配慮して、できる限り立って演じるシーンはカットしていたそうです。
ただ立っていることさえ辛くなってきていたこの時期、撮影の合間には、寅さんのトレードマークともいえるトランクを椅子代わりにして座っている姿が当たり前のことになってきており、映画関係者などからの挨拶に応えることすら厳しい体調になっていたそうです。
渥美の優れない体調により、男はつらいよ第42作目以降は、ストーリー上の甥である満男を主役にしたサブストーリーが併用されるようになり、満男の出番を増やしながら主演の寅次郎の出番を少しずつ減らし始めていくことになります。
第46作目ごろになると、撮影日を減らし、撮影ペースも落としていましたが、撮影した日の午後過ぎになると声の調子が落ちてしまい、撮影を続けることができなくなってしまうことも多くなってきていました。
平成3年に診断された肝臓癌は、3年後には肺に転移し、不可能と言われていた第47作の撮影だけではなく、最後の作品となる第48作にも出演するなど、主治医から奇跡としか言いようがないと言われるほどの役者魂を最後まで見せつけてくれました。
「渥美清」の死に様
渥美清はがんを患いながらも入退院を繰り返し、手術も受けていましたが、このような事実は家族や一部の関係者以外にはまったく打ち明けておらず、一般人だけではなく、「男はつらいよ」のスタッフ関係者や山田洋次監督にさえ話をしていませんでした。
そして自身の死の直前には、「戒名は不要」「家族のみで看取ること」そして「世間へ発表するのは荼毘に付した後」などの遺言を残していたため、実際に亡くなった3日後の平成8年8月7日に、松竹から彼の訃報が初めて公表されています。
遺言を守り家族だけで行った密葬の後、遺体は東京都荒川区内の町屋斎場にて荼毘に付されました。
この時点で彼の死を知っているのは家族とほんの一部の関係者のみであり、男はつらいよの山田洋次監督でさえ、死を知って駆け付けた際には、遺骨としか対面することができなかったそうです。
「渥美清」の小ネタ等
1人の俳優が演じ続けた最も長い映画シリーズとして、ギネスブックにも掲載されている「男はつらいよ」の主演渥美清は、山田洋次監督や「さくら」役の女優倍賞千恵子、またスタッフ数人を誘って、約1週間のタヒチ旅行に繰り出したことがあるそうです。
この旅行にかかった費用は飛行機代も宿泊代もすべて渥美清が支払ったという逸話が残されており、男はつらいよでの寅さん同様、実際の渥美清も粋で気前の良い男だったと言います。
また、昭和29年に肺結核を患ったことで、右肺を全て切除しており、約2年間に及ぶ長い療養生活を強いられている経験が、彼のものの考え方などに大変深い影響を与えたとも言われています。
まとめ
渥美清は、男はつらいよの主演、車寅次郎役を27年間におよぶ48作にわたって演じ続けた唯一無二と言っても良い日本を代表する役者でした。
戦後の復興と共に歩み続け、人々を楽しませてきた「車寅次郎」は亡くなった現在においても、多くの人の記憶に刻まれ続けています。