「嵐ヨシユキ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「嵐ヨシユキ」の死に際とは?日本の人物

ロックバンド横浜銀蝿のメンバーでドラムスを担当していた嵐(らん)ヨシユキは67歳で亡くなっています。

今回はその死因について解説していきます。

「嵐ヨシユキ」とは?簡単に説明

昭和30年に神奈川県横浜市で生まれた嵐ヨシユキこと田宮淑行(たみやよしゆき)は、昭和50年代に活躍したロックバンド「横浜銀蝿(よこはまぎんばえ)」のメンバーでした。

当時大人気だったキャンディーズのメンバーである伊藤蘭(いとうらん)の熱烈なファンだったことから、自身の芸名を「嵐(らん)」と名付け、作曲の際には「タミヤヨシユキ」名義で活動していました。

嵐は湘南工科大学附属高等学校を卒業後、関東学院大学に進学しますが、留年を幾度も重ね、最終的には8年目に除籍されています。

昭和55年には横浜銀蝿のシグネチャソングともいえる「ツッパリHigh School Rock’n Roll」が大ヒットし、その後のアーティストに多大なる影響を与えますが、昭和58年にバンドは解散することになります。

解散後は芸能活動から距離をおいていましたが、令和4年7月4日、肺炎により67歳で死亡しています。



「嵐ヨシユキ」の死に様

平成16年に脳梗塞により開頭手術を受けた嵐ヨシユキは、その手術で小脳の半分ほどを摘出しましたが、退院後は少しずつ体調が回復していきました。

奇跡的に回復したことにより、開頭手術のわずか2年後には横浜銀蝿の25周年コンサートに参加することが叶い、その後も細々と活動を続けていきます。

令和2年にはバンドの40周年記念により1年間限定で横浜銀蝿を復活させますが、この時期人工透析を受けていた嵐は、車椅子で参加することになります。

最期となってしまったこのステージ上では、元気な姿をファンに見せていたものの、そこからさらに2年後、肺炎により67歳で永眠しています。



「嵐ヨシユキ」の死に様の信憑性

令和4年4月17日、嵐ヨシユキの地元でもある横浜市内で開催された横浜銀蝿の復活ライブは、嵐自身の誕生日を祝う生誕祭ライブでもありました。

当時人工透析を受けていた嵐は、車いす姿のままステージに立って、大勢の観衆の前でバンドのメンバーたちと共に3曲ほど披露しています。

現役当時担当していたドラムを叩く力はすでに残されておらず、このステージ上で嵐はボーカルやコーラスなどを中心に演奏に参加していました。

晩年は入退院を繰り返していましたが、病床においても最後まで音楽への情熱は衰えておらず、結成50周年に開催予定の記念ライブでは、ドラムを再び演奏することを夢見ていたそうです。

しかしながら、その想いが叶えられることはありませんでした。

「嵐ヨシユキ」の小ネタ等

横浜銀蝿のボーカルを務める翔(しょう)は嵐ヨシユキの実弟ですが、彼は合計3度も覚醒剤取締法違反で逮捕されています。

弟の3度目の逮捕の際に責任を感じた実兄の嵐は、当時自身の髭をすべて剃って、頭も剃り上げ坊主頭となって反省の意を表しました。

まとめ

昭和のツッパリ魂を堪能させてくれた横浜銀蝿のメンバーである嵐ヨシユキは、最後の最後まで男の生きざまを感じさせてくれた稀有な音楽家でした。

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