石川啄木は、明治を代表する歌人です。
歌集「一握の砂」を書いた作者として知られています。
石川啄木の晩年と最期について紹介します。
石川啄木とは?
石川啄木は岩手県の生まれで、父親は曹洞宗の寺院の住職をしていました。
子どもの頃は神童と呼ばれるほど学業に秀でていたようです。
文芸雑誌の「明星」を読み、与謝野晶子の短歌に傾倒するようになりました。
この頃、友人とともに岩手日報に短歌を発表しています。
21歳の時には小学校の代用教員となりますが、長くは続かず22歳で再び文学を志して上京します。
文芸雑誌「スバル」の創刊に携わりました。
石川啄木の晩年
上京した石川啄木は就職活動を行い、東京朝日新聞の校正係の職を得ました。
妻子と両親を呼び寄せ、同居するようになります。
そして24歳の時に、「一握の砂」を東雲堂から出版しました。
「一握の砂」には、故郷である岩手を想う歌や貧困と挫折によって鬱屈する心情などを綴った歌が収められています。
ありふれた日常を歌った歌が多いのが特徴です。
この歌集によって詩人として評判となり、多くの文芸雑誌から作品を掲載したいという依頼が来るようになりました。
また、その頃には世間では幸徳秋水による大逆事件が発生しています。
大逆事件とは、全国の社会主義者が明治天皇の暗殺を企てたとして逮捕された政治的な弾圧事件です。
この事件をきっかけに、石川啄木は社会主義に傾倒するようになりました。
石川啄木の最期
石川啄木は、妻の節子と共に体調を崩してしまいます。
腹膜炎と肺結核を患っていました。
そして26歳の時に、妻や父に看取られながら息を引き取りました。
石川啄木の母親も啄木が亡くなる1か月程前に亡くなっています。
啄木の死から数か月後に妻の節子は娘を出産しますが、翌年には節子も肺結核で亡くなりました。
石川啄木をめぐる逸話
石川啄木というと、「はたらけど はたらけどわがくらし楽にならざり ぢつと手を見る」という有名な詩を思い出す人も多いと思います。
この詩だけを読むと、真面目に働いても貧しい暮らしをしている青年を思い浮かべるかもしれません。
しかし、生活に困窮していたのは事実のようですが、その原因は遊興にあったといわれています。
浅草に通って娼妓と遊ぶなど、お金を遊んで散財していたのです。
しかも友人に借金をしまくっていました。
また、妻がありながら女遊びもひどく、給料を家庭に入れないことも少なくありませんでした。
それでも人を惹き付ける魅力があったようで、友人たちは啄木を支援し続けます。
特に親しくしていたのは言語学者となる金田一京助で、たびたび金の無心をされますが親しく交流していました。
まとめ
石川啄木は晩年に代表作となる歌集「一握の砂」を発表します。
しかし、病を患い26歳という若さで亡くなります。
死因は肺結核でした。
妻の節子は啄木の死後に娘を出産しますが、翌年には啄木と同じ肺結核で亡くなっています。