「司馬遼太郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「司馬遼太郎」の死に際とは?日本の人物

「司馬遼太郎(しばりょうたろう)」とは?

司馬遼太郎の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「司馬遼太郎」とは?簡単に説明

司馬遼太郎は産経新聞社の記者として活躍していましたが、在職中に執筆した「梟の城」で直木賞を受賞します。

その後も「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」「国盗り物語」「関ヶ原」など歴史ファンに大きな影響を与えた人気作品を次々と発表します。

これらの作品により、「司馬史観」と言われる司馬独自の歴史観が広まっていくことになりますが、虚構部分を史実と受け取る読者も多く、誤った歴史知識の広まりや人物像の過大・過小評価などの混乱を招いていることもあります。



「司馬遼太郎」の晩年

司馬遼太郎の死因は腹部大動脈瘤の破裂によるものとされていますが、その前兆は1年半以上も前からありました。

1995年(平成7年)4月に左の座骨神経痛の訴えを皮切りに、6月には右足が重く感じられ、12月には他人の顔が白く見えるほど貧血がひどくなり、翌年1月には腰痛、貧血、発熱と立て続けに前兆を示す症状が現れています。

1年半も前から前兆が現れていたにもかかわらず、医者に行かず放置したことがそもそもの原因でした。

もし、医者にかかって大動脈瘤の手術をしていればほぼ確実に助かっていたでしょう。

何とも惜しまれることです。



「司馬遼太郎」の死に様

1996年(平成8年)2月10日午前0時過ぎ頃、司馬はお風呂場で歯を磨いていたところ、不意に足元がよろめき、「おーい、また大貧血だ」と妻の福田みどりに言って居間のソファに倒れ込みました。

慌てて駆け寄ったみどり夫人に司馬は「時計見て」と言い、みどり夫人は0時40分であることを確認しました。

その後、司馬は大量吐血し、額に脂汗をかきながら何度も「空気が欲しい」と苦しがっていました。

午前1時頃、国立大阪病院に緊急搬送された司馬は翌11日の未明から9時間に及ぶ大手術を行ない、腹部大動脈瘤の十二指腸への穿孔破裂と診断されます。

そして翌12日の午後8時50分、帰らぬ人となります。

72歳でした。

「司馬遼太郎」の死に様の信憑性

司馬遼太郎は1993年(平成5年)頃から腰痛を訴えており、この時点で腹部大動脈瘤が生じていたようです。

の死に様については、病院での死去につき、信憑性は高いでしょう。

また、みどり夫人が直接目の当たりにした司馬の死に様を「司馬さんは夢の中」の中で綴っており、司馬遼太郎の「死に様」はこの中から抜粋・要約して記載したものであることからも信憑性の高さがうかがわれます。

まとめ

司馬遼太郎の命日である2月12日は菜の花忌と呼ばれています。

司馬が生前、この花の黄色を好んだことにちなんでいます。

また、司馬の作品にある「菜の花の沖」にもちなんでいるようです。

また、司馬が亡くなった国立大阪病院は、代表作の一つ「花神」の主人公である大村益次郎が死去した病院と同じ病院です。

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