この記事では、「山下清」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「山下清」とは?
「山下清」とは、日本のゴッホと呼ばれた画家です。
ちぎり紙細工やペン画で描いた様々な作品を残しています。
「山下清」は幼い頃の病気の影響で、言語障害や知的障害があったとされます。
知的障害児のための八幡学園で、ちぎり紙細工と出会いました。
没頭する中で才能が開花し、1銀座の画廊で初の個展を開催します。
大阪で展覧会が開催されると、その作品は称賛されました。
放浪生活を送ったこともあり、映画やドラマ「裸の大将」のモデルにもなっています。
「山下清」の晩年
「山下清」というと、テレビドラマや映画「裸の大将」を思い浮かべる人も多いと思います。
ドラマや映画では放浪した先々で出会う人々との交流を描いているので、放浪しているイメージがあります。
実際、「山下清」は若い頃は放浪していましたが、晩年は東京の練馬区谷原に住んでいました。
東京からわざわざ京都まで、スケッチ旅行に出かけることもあったといいます。
晩年は東海道五十三次の制作に取り組んでおり、55枚の作品を残しています。
5年の歳月を要しました。
旅は好きだったようで、40日間のヨーロッパ旅行に出かけたこともあります。
ヨーロッパの名所も絵に残しました。
「山下清」の死に様
「山下清」が亡くなったのは、1971年の7月です。
死因は脳出血でした。
享年49です。
亡くなる前日にも花火見物の話を家族とするなど、元気に過ごしていました。
また、「山下清」が取り組んでいた「東海道五十三次」は42枚までしか描いていませんでした。
しかし、亡くなった後に残りの13枚がアトリエから発見されます。
素描として描かれた絵の完成度は非常に高いものでした。
本人はこれをちぎり細工にしたいと思っていたようですが、亡くなったため素描のままとなっています。
「山下清」の死に様の信憑性
脳出血で亡くなる3年前に、「山下清」は高血圧が原因で眼底出血を起こしています。
眼底出血は網膜に起こる出血です。
そのため「東海道五十三次」の制作は途中にし、静養することになります。
その後、脳出血で亡くなったため「東海道五十三次」は未完と思われていました。
しかし、静養中にも関わらず家族にも内緒で残りを描いていたようです。
素描ではあるものの55枚全てが揃いました。
まとめ
「山下清」は晩年、「東海道五十三次」の制作に取り組んでいました。
脳出血を起こして49歳で亡くなります。