「秋月種実」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「秋月種実」の死に際とは?日本の人物

九州の一大勢力であった大友氏へ果敢に挑んだ戦国大名「秋月種実」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「秋月種実」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「秋月種実(あきづき たねざね)」とは?簡単に説明

「秋月種実」は筑前国(現在の福岡県西部)を治めていた秋月氏16代目当主となった戦国大名です。

幼い頃、秋月氏が大友氏との戦いに敗れたことにより、一度は毛利家の庇護下で過ごすことになりました。

その後、旧領奪還に成功したことを機に「秋月種実」は反大友氏勢力として幾度も戦いを繰り広げ、その武名を轟かせていきます。

当時、九州で勢力を伸ばしつつあった島津氏とも手を組み、大友氏の領地を次々に攻略。

筑前、筑後、豊前の地で11郡を獲得した秋月氏は36万石の領地を治める有力大名へと登り詰めるのでした。



「秋月種実」の晩年と最期

天正15年(1587年)、天下統一に手を伸ばす「豊臣秀吉」は大友氏から要請を受け、島津氏征伐のために九州へ乗り出します。

豊臣軍の情報を得るために、「秋月種実」が使いとして家臣を送ったところ、「秀吉」は筑前と筑後を与えるという条件付きで降伏を勧告しました。

大軍勢を率いてきた「秀吉」を前に降伏することを進言する家臣を跳ね除け、「秋月種実」は島津氏との盟の下、徹底抗戦の道を選びます。

本拠地である古処山城で豊臣軍と相対した秋月軍でしたが、歴然とした兵力差と一夜城を目にしたことで戦意を喪失してしまい、「秀吉」に降伏しました。

この時、「天下三肩衝」と称される茶器の1つ「楢柴肩衝」を献上したことにより、「秋月種実」は死罪を免れ、秋月氏のお家存続が認められたとも云われています。

やがて、島津氏も「秀吉」に降伏し、「秋月種実」は日向国(現在の宮崎県)へと移封、石高も36万石から3万石へと減らされてしまいました。

秋月から移封先の日向国へ向かう際、「秋月種実」「10石でもいいから秋月に留まりたい」と嘆いたとされています。

そして、慶長元年(1596年)の9月26日に享年52歳で病没しました。



「秋月種実」の死に様の信憑性

病没とされていますが、詳しい死因は定かとなっていません。

九州の雄「秋月種実」

「秋月種実」は雨風の中、夜襲を仕掛けたり、かたや敵勢家臣を調略するなど知勇を駆使して大友氏に挑みました。

大友家臣であり、同じく九州の雄として名高い「立花道雪」「立花宗成」「秋月種実」には一目置いていたようです。

まとめ

「秋月種実」は筑前国を治めていた戦国大名・秋月氏16代目当主となった人物です。

九州で勢力を誇っていた大友氏へ果敢に挑み、やがて秋月氏最大の勢力範囲を築き上げることに成功しました。

その後、九州征伐に乗り出した「豊臣秀吉」とも抗戦を掲げますが、降伏した末に日向国へと移封となります。

そして、慶長元年(1596年)9月26日、享年52歳で病気によりこの世を去りました。

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