「四条天皇(しじょうてんのう)」とは?
四条天皇の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「四条天皇」とは?簡単に説明
四条天皇は鎌倉時代の天皇で第87代天皇です。
第86代天皇である後堀河天皇の第一皇子で、寛喜3年(1231年)2月12日に誕生し、同年4月11日に親王になり、10月28日には後堀河天皇の皇太子にたてられます。
貞永元年(1232年)10月5日に即位し、第87代天皇となりますが、わずか12歳で崩御したため、皇子女がおらず、最終的に後嵯峨天皇が即位するまでに11日間の空位を生むことになります。
「四条天皇」の死に様
四条天皇が崩御したのは仁治3年(1242年)1月9日のことです。
まだ数えで12歳(満10歳)と幼少だった四条天皇は、御所の廊下に滑石を撒いて近習の人や女房たちが滑って転ぶところを楽しもうとしていたところ、誤って自分が滑って転倒してしまいます。
同じくらいの年頃だった内大臣の九条忠家と仲がよく、かなりの悪戯好きだった2人は朝夕一緒に遊んでおり、滑石を撒いたのも悪戯の一環でした。
四条天皇の死因はこの状況から脳挫傷とする憶説がありますがありますが、真偽は定かではありません。
「四条天皇」の死に様の信憑性
四条天皇の突然の崩御を不可思議に思う人々は多くいて、巷では後鳥羽上皇の怨霊によるものとする噂(慈円の祟りによるものとするうわさもあります)が立っています。
これは承久の乱での敗北によって後鳥羽上皇が隠岐の島に流罪になっていたためです。
四条天皇の死に様・死因については確証がないため、信憑性まで言及できないのが現状です。
「四条天皇」の小ネタ等
天皇家は第80代の高倉天皇から3つの血統に別れています。
1つめは第81代の安徳天皇です。
しかし、安徳天皇は壇ノ浦の戦いでの平家滅亡と共に命を落としています。
2つめは第82代の後鳥羽天皇です。
1198年に第83代の土御門天皇に譲位した後鳥羽天皇は上皇となって院政を開始します。
天皇の血統は後鳥羽上皇の血統になり、第84代の順徳天皇、第85代の仲恭天皇と続きますが、仲恭天皇の代のときに勃発した承久の乱の責任を追及され、後鳥羽、土御門、順徳の3上皇は流罪、仲恭天皇は廃されます。
また鎌倉幕府の強い意向によって、後鳥羽上皇の血統も天皇家の直系から外れます。
そして残ったのが3つめの血統である守貞親王の血統でした。
守貞親王の息子が第86代の後堀河天皇となるのです。
その後、後堀河天皇は2歳の四条天皇に譲位し上皇となりますが、23歳という若さで崩御します。
これにより皇位継承問題で揉める深刻な事態を引き起こすことになります。
まとめ
まさに現代でも問題になっている皇位継承問題ですが、この時は鎌倉幕府も大変困ったようです。
後鳥羽上皇の血統だけは継がせたくなかったのですが、渋々消去法で後嵯峨天皇にするといった妥協策を採らざるを得なかったのです。
ひょっとすると本当に後鳥羽上皇の怨霊というか執念のなせる技かも知れません。