この記事では、滝廉太郎の晩年や最期について紹介します。
滝廉太郎とは?
滝廉太郎とは、明治時代に活躍した日本を代表する作曲家です。
「荒城の月」や「箱根八里」「花」といった名曲を作曲した人物として知られています。
1901年に発表した「荒城の月」は日本で初めて作曲された西洋音楽の歌曲で、哀愁漂うメロディが特徴的です。
それまでは日本では、ヨナ抜き音階と呼ばれる独特の旋律で曲が作られていました。
「荒城の月」は西洋音楽の旋律によって作られた曲です。
また、滝廉太郎は「お正月」や「雪やこんこん」など童謡も作曲しています。
滝廉太郎の晩年
滝廉太郎は、1894年に東京音楽学校に入学しました。
1898年に卒業しますが、そのまま研究科に進んでいます。
東京音楽学校において、滝廉太郎は作曲とピアノの才能を開花させました。
滝廉太郎の代表作となる「荒城の月」を発表したのは、まだ20歳の時です。
その後も「花」を含めた組曲「四季」や「箱根八里」「鳩ぽっぽ」「お正月」「雪やこんこん」等、多数の作曲を行っています。
そして1901年、ヨーロッパ留学生としてドイツに渡り、ライプツィヒ音楽院に入学します。
ライプツィヒ音楽院は、ドイツの音楽家として有名なメンデルスゾーンが設立した音楽院です。
ライプツィヒ音楽院で作曲や音楽理論、ピアノ等を学んでいましたが、ドイツに渡って5か月後に病に倒れてしまいます。
肺結核でした。
病状は回復せずに、日本に帰国することになります。
滝廉太郎の死に様
滝廉太郎はドイツから日本に帰国後、父親の故郷である大分で療養していました。
患っていた肺結核は徐々に悪化していき、本人も死期を悟っていたようです。
そして、大分の自宅で23歳という若さで亡くなりました。
滝廉太郎の死に様の信憑性
滝廉太郎は死期を悟った後、「憾(うらみ)」という曲を残しています。
滝廉太郎が残したピアノ曲は多くはありませんが、「憾」はその一つになります。
「憾」は人を恨む気持ちを表しているわけではなく、「無念」とか「未練」といった心情を表したものです。
まだ20代という若さで病に倒れ、死が間近に迫っていることに抱いた無念の気持ちが伺えます。
まとめ
滝廉太郎は晩年に、「荒城の月」や「花」「箱根八里」「雪やこんこん」「お正月」など数々の名曲を作曲しました。
ドイツに留学しますが肺結核に侵され、日本に帰国後23歳という若さで亡くなっています。