「織田信孝」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「織田信孝」の死に際とは?日本の人物

織田信長の子でありながら、不遇な人生を辿った戦国大名「織田信孝」はどのような最期を遂げたのでしょうか?

この記事では、「織田信孝」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「織田信孝(おだ のぶたか)」とは?簡単に説明

「織田信孝」は、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国大名であり、「織田信長」の三男(生年月日によると実は次男だった説あり)です。

その後、「織田信孝」「神戸氏」の養子となり、「神戸信孝(かんべ のぶたか)」として家督を相続します。

戦功を挙げ続けた「織田信孝」はやがて「四国攻め」の総大将として任命されますが、進軍の前日に「本能寺の変」が起こり、「織田信長」が没しました。

その後、「織田家」後継者として名乗り出るも、跡継ぎの座は「羽柴秀吉」が推した「織田信長」の孫「三法師」が得ることになります。

「織田信孝」の晩年と最期

やがて「織田信孝」は、織田信長の次男「織田信雄(おだ のぶかつ)」「羽柴秀吉」らと対立を深めていきます。

そして、天正11年(1583年)に「羽柴秀吉」「柴田勝家」の間で「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」 が勃発すると、「織田信孝」は岐阜城で挙兵し、「柴田勝家」に与します。

しかし、この戦いで「柴田勝家」は敗北、「織田信孝」も居城である岐阜城を包囲された末に降伏し(和議を持ち掛けた織田信雄に欺かれて開城させられた説もあり)、「織田信雄」の命により自害します。

享年26歳でした。

「織田信孝」の死に様の信憑性

「織田信孝」は、天正11年(1583年)4月29日(6月19日)、または5月2日(6月21日)に現在の愛知県知多郡美浜町にある野間大坊(のまたいぼう)・案養寺(あんよういん)にて自害します。

切腹の折、「織田信孝」は掻き切った腹から腸を掴み出し、床の間の掛け軸に投げつけたと云われており、短刀と血痕の残った掛け軸が安養寺に伝来しています。

「織田信孝」の辞世の句

「織田信孝」の辞世の句として2つの句が伝わっています。

ひとつは「天正記」に伝わる 「たらちねの 名をばくださじ 梓弓 いなばの山の 露と消ゆとも」 であり、本懐を遂げることができず死んでいく無念さを詠んでます。

もうひとつが「太閤記」に伝わる「むかしより 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前 」です。

「織田信孝」が自害した地である野間の内海(うつみ)は、かつて「源義朝」が家臣の「長田忠致(おさだ ただむね)」の騙し討ちに遭って死んだ場所であり、「長田忠致」はその後、「源義朝」の子「源頼朝」により処刑されました。

「内海」「討つ身」が掛かっており、「羽柴秀吉」を逆臣とみなし、恨みを詠んだ句とされています(後世の創作説あり)。

まとめ

「織田信孝」は、尾張国の戦国大名であり、「織田信長」の三男(実際は次男だった説あり)です。

「織田信長」の下、主要な戦場で功績を挙げますが、「本能寺の変」後は、兄「織田信雄」「羽柴秀吉」らと対立します。

「賤ケ岳の戦い」にて、「羽柴秀吉」を相手取り「柴田勝家」に与するも、柴田軍は敗北し、「織田信孝」も降伏しました。

その後、「織田信雄」の命により自害します。

享年26歳でした。

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