「寺山修司」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「寺山修司」の死に際とは?日本の人物

この記事では、寺山修司の晩年や最期について紹介します。

寺山修司とは?

寺山修司とは昭和に活躍した劇作家で、歌人や演出家、映画監督などマルチな活動を行った人物です。

膨大な文芸作品を残しています。

谷川俊太郎に勧められてラジオドラマを書き始め、「乾いた湖」のシナリオを担当しました。

劇団四季が初演した「血は立ったまま眠っている」の戯曲を書き、前衛芸術家として注目されます。

1967年に天井桟敷という劇団を結成し、様々な公演を行いました。

代表作には「毛皮のマリー」「奴婢訓」等があります。



寺山修司の晩年

寺山修司は、晩年も幅広い創作活動を行っていました。

競馬が好きで競走馬の馬主になったこともありますし、漫画「あしたのジョー」に登場する力石徹の葬儀で葬儀委員長を務めたこともあります。

1974年には映画「田園に死す」が公開されました。

この映画は寺山修司が書いた歌集を元にしたもので、寺山自身が脚本も監督も務めています。

また、1979年の時に肝硬変と診断され、2カ月入院しました。

その2年後に、再び肝臓が悪化したため再び入院を余儀なくされています。

その際、主治医に対して、60歳まで生かしてほしいと言ったといわれています。

あと5年は演劇をやりたい。

その後10年は文筆一本でやっていきたいとのことでした。

病に倒れても創作意欲が全く衰えていなかったことが伺えます。

それから寺山修司は女優の九條今日子と結婚していたこともあります。

結婚生活は7年程でしたが、離婚後も良好な関係を築いていたようです。

晩年の良き相談相手だったといわれています。

九條今日子は寺山修司が亡くなった後にも著作権の管理を担当し、三沢市寺山修司記念館の名誉館長を務めてもいます。



寺山修司の死に様

1983年、寺山修司は再び肝硬変を発症して入院します。

そして、腹膜炎を併発し敗血症により亡くなりました。

享年47です。

寺山修司の葬儀委員長は、谷川俊太郎が務めました。

本人は生前墓はいらないといっていましたが、母によって建てられています。

寺山修司の死に様の信憑性

寺山修司は肝臓が悪化した際、入院を嫌がったというエピソードが残されています。

創作活動に没頭したく、入院するとそれができなくなるからです。

また、子供の頃にネフローゼを患ったこともあり、長期入院していた経験があります。

その際、死を意識したともいわれています。

まとめ

寺山修司は晩年も創作活動に励みますが、肝硬変が悪化して敗血症により亡くなりました。

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