「小説の神様」や「写実の名手」と称され、日本人作家たちに多大な影響を与えた「志賀直哉」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「志賀直哉」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「志賀直哉(しが なおや)」とは?簡単に説明
「志賀直哉」は「小説の神様」と称される日本人小説家です。
「写実の名手」とも評され、明治から昭和期の文芸思潮のひとつである「白樺派」を代表する作家とされています。
20歳の頃に見た女義太夫「昇之助」の公演に感銘を受け、「自分も何かで人に感動を与えたい」、「自分にとってその何かとは小説の創作だ」と考え、小説家を志望するようになったそうです。
そして、東京帝国大学在学中に文学同人誌「白樺」を創刊します。
この「白樺」から生まれた文芸思潮「白樺派」は1910年代の文学を大きく席巻することになるのでした。
「志賀直哉」の晩年と最期
日本の敗戦により太平洋戦争が終結すると、「志賀直哉」は作家としての活動を再開し、多くの作品を発表すると共に、雑誌の創刊などに携わりました。
1949年(昭和24年)には文化勲章を与えられています。
1952年(昭和27年)に「志賀直哉」はかねてからの望みであったヨーロッパ旅行へと旅立ちます。
イタリアやフランス、スペイン、ポルトガルと美術鑑賞のために各地を回りますが、途中で体調を崩したことにより、ほとんど寝たきりの状態になってしまい、北欧とアメリカへの渡航予定を断念して日本への帰路につきました。
帰国後も執筆活動を続けますが、以前よりも寡作気味になっていたようです。
1969年(昭和44年)に生涯最後の作品となる「ナイルの水の一滴」を執筆し、それから数年後の1971年(昭和46年)10月21日に肺炎と老衰により享年89歳で死去しました。
「志賀直哉」の死に様の信憑性
1971年(昭和46年)10月21日、午前11時58分に関東中央病院にて死を迎えました。
死因は肺炎と老衰によるものとされています。
引越し魔だった「志賀直哉」
「志賀直哉」はおびただしいほどの引越しをしており、生涯でその数は何と23回にも及びます。
宮城県牡鹿郡石巻町に生まれ、間もなく父と共に東京へ移った後も数年周期で転居を繰り返しました。
宮城県、東京都、広島県、島根県、京都府、神奈川県、群馬県、千葉県、奈良県、静岡県と県を跨いだ引越しだけでも実に10か所もの場所に移り住んでいるのです。
まとめ
「志賀直哉」は「小説の神様」、「写実の名手」と称えられる日本人小説家です。
東京帝国大学在学中に創刊した文学同人誌「白樺」を中心に「白樺派」と呼ばれる文芸思潮が生まれ、当時の文学に大きな影響を及ぼしました。
晩年は寡作気味となりながらも執筆活動を続け、生前最後の作品を手掛けた数年後の1971年(昭和46年)10月21日に肺炎と老衰により死去します。
享年89歳でした。