「朱里エイコ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「朱里エイコ」の死に際とは?日本の人物

「朱里エイコ(しゅりえいこ)」とは?

朱里エイコの晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「朱里エイコ」とは?簡単に説明

朱里エイコは1964年(昭和39年)に田辺エイ子の名前でデビューした日本の歌手です。

しかし当時は全く売れず、2度の渡米を経て朱里エイコに改名しての再スタートから10枚目にリリースしたシングル「北国行きで」が80万枚を超える大ヒットになります。

これを機に一躍スターの仲間入りをしますが、担当マネージャーとコンサート最中に失踪するという事件を起こしたため、その後ヒット曲が出ず、人気も急落します。

1975年(昭和50年)にアメリカに渡り、ホテルのディナーショーなどの出演を新たな活動の場としています。



「朱里エイコ」の晩年

1972年(昭和47年)の交通事故で頸部外傷を患い、精神が不安定な状態となります。

1973年(昭和48年)2月14日の福島県郡山市でのコンサートで歌詞を間違えたことがきっかけで失声し、マネージャーとともに楽屋から失踪します。

そのマネージャーとはその後結婚しますが、1978年に協議離婚します。

離婚後、妻子ある男性と不倫し、そのストレスから肝臓を患って1年間の療養生活を送ります。

1983年(昭和58年)にも失踪事件を起こします。

さらに亡くなる15年前から心臓と肝臓を患って入退院を繰り返すようになり、薬の副作用から全盛時45キロだった体重は60キロ以上になったそうです。

その後は「あの人は今」といった番組にたまに出演する程度で、晩年は第一線から完全に遠ざかっていました。



「朱里エイコ」の死に様

朱里エイコは2004年7月31日午前に東京都足立区竹の塚の自宅で亡くなっています。

死因は虚血性心不全で56歳(享年58)でした。

朱里の自宅は十数年前から住んでいた、都内私鉄沿線から徒歩20分、築20年以上の都営住宅です。

朱里がその自宅の寝室でパジャマ姿のまま亡くなっているのを発見したのは同居男性でした。

その男性は数年前から朱里と同居していて、「たあちゃん」と呼ばれていた40代の男性でした。

警察関係者の話によると、朱里は枕に突っ伏すような状態で亡くなっており、死後数時間経っていたとのことです。

状況から事件性はないと判断されますが、発見者の男性の動揺が激しく話を聞ける状態ではなかったそうです。

「朱里エイコ」の死に様の信憑性

心臓と肝臓に持病を持っていた朱里は長年闘病生活を送っており、「あの人は今」という番組に出演し時も、当時を知る人にとってはまるで別人のような変貌ぶりでした。

よほど不健康な生活を送っていたことが容易に想像でき、その死に際しても不審感は感じられない状況だったと思います。

警察も事件性はないと判断しており、死に際は持病と合致する死因の通り心臓にかかわる病死で問題ないでしょう。

まとめ

本場アメリカでディナーショーを成功させるほどのパワフルな歌唱力と100万ドルの保険を掛けたと言われる「100万ドルの脚線美」が自慢の歌手でしたが、日本ではあまり受け入れられなかったようです。

朱里の持ち味が生かされるようなレベルに日本のショービズ界がまだ進んでいなかったためだと言われています。

何とも不運な国際派シンガーです。

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