「小松帯刀(こまつたてわき)」とは?
小松帯刀の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「小松帯刀」とは?簡単に説明
小松帯刀は維新10傑に数えられえるほど明治維新に尽力した志士の1人です。
薩摩藩出身で、島津久光が政治的実権を握ると側近に選ばれ、1862年には藩の家老に抜擢されます。
小松は西郷隆盛や大久保利通、坂本龍馬の存在により影が薄い感がありますが、「薩長同盟」や「大政奉還」などを実質的に成し遂げており、小松の後ろ盾無しでは西郷や大久保、龍馬の活躍もなかったと言えるでしょう。
持病と早死により思うように実力を発揮できませんでしたが、もし元気で長生きしていれば10傑どころか維新最大の功労者に成り得た人物です。
2. 「小松帯刀」の晩年小松は万延元年頃から患っていた「足痛」のため、温泉での治癒を度々行なっています。
この小松の政治活動を制約することになる「足痛」の原因については痛風、脚気衝心、糖尿病などが考えられますが病名はよく分かっていません。
また、オランダ人軍医のアントニウス・F・ボードウィンの診察を受けていた記録も残っており、そこには「胸痛」「肺病」の発症や左下腹部に切除不能の腫瘍があることも記しています。
明治3年1月には大久保利通や木戸孝允らの見舞いを受けますが、小松は自分の命が永くはないことを悟ってか、この頃には遺言書を作成しています。
「小松帯刀」の死に様
小松帯刀は1870年8月16日(明治3年7月20日)に死去したとされています。
36歳という若さでした。
小松の最期は正室の近ではなく、晩年献身的な看病をした側室の琴(三木琴)が看取っています。
このように書くと小松や琴は正室の近とは折り合いが悪かったように聞こえますが、そんなことはないようです。
小松は近と安政3年に霧島温泉に同行(いわゆる新婚旅行)するほど仲が良く、これは日本初の新婚旅行を行なったとされている坂本龍馬よりも小松夫婦の方が早かったことになります。
さらに龍馬の新婚旅行先も霧島温泉でしたが、ここを龍馬に勧めたのも小松と言われています。
また、小松の死から4年後に亡くなる琴の「小松の墓のそばで眠りたい」という琴の遺言を実現するのも近でした。
「小松帯刀」の死に様の信憑性
小松帯刀は幼少時から病弱だったと言われており、その傾向は成人してからも変わりませんでした。
上述したように小松は多くの病気を抱えながら、あの激動の幕末を駆け抜けていたのです。
小松の主治医のボードウィンは日本の医療技術では限界があるとして小松に渡欧を勧めていましたが、少し動いただけで胸痛を訴える状況だったため断念しています。
また、薩摩藩家老の桂久武の書簡にも「御肺病」との記述があることから総合的に見て小松の死因は肺結核というのが定説になっています。
巷には歴史上の偉人にはつきものの暗殺説というのもありますが、確かな根拠がなく、信憑性はかなり低いと言えます。
まとめ
小松帯刀のことを調べれば調べるほど、彼の偉業もさることながら彼の人柄や才能にも大変惹かれます。
こんな人物がこんなに早く亡くなってしまうとは!という思いが募り、もし長く生きていればと残念でなりません。