「龍造寺隆信」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「龍造寺隆信」の死に際とは?日本の人物

龍造寺隆信は肥前の戦国大名で、九州の覇権をめぐって島津氏と争いました。

その晩年と最期がどのようなものだったのか紹介します。

龍造寺隆信とは?

龍造寺隆信は、龍造寺周家の子として誕生します。

7歳の時に出家して円月と名乗りますが、後に還俗しています。

龍造寺家は少弐氏の家臣でしたが、父は謀反の疑いをかけられ殺されてしまいます。

その後、主筋であった少弐氏を攻め、下剋上を果たして城から追放しました。

龍造寺本家の家督を継ぎ、勢力を拡大しながら肥前を統一します。



龍造寺隆信の晩年

龍造寺隆信は肥前を統一すると、家督を長男である政家に譲りました。

そして須古城に隠居するのですが、隠居した後も政治に口を出し続けました。

その頃、和睦を結んでいた大友宗麟が、島津義久に大敗したという話が伝わります。

すると、この混乱に乗じて龍造寺隆信は、大友氏の領地まで攻め入ります。

筑前や肥後、豊前などを制覇し、龍造寺氏は戦国大名となったのです。



龍造寺隆信の最期

九州の覇権は、大友氏・龍造寺氏・島津氏の三氏で争っていました。

ところが大友宗麟が耳川の戦いで島津義久に敗北したことにより、勢力図が大きく変化します。

島津氏と龍造寺氏はお互い大友氏の領地に侵入し、激しく対立することになりました。

そこで勃発したのが沖田畷の戦いです。

島津氏・有田氏の連合軍との戦いで、龍造寺軍は2万5千もの大軍でした。

それに対して島津・有田は、1万にも満たない兵力だったといわれています。

圧倒的な兵力の差がありましたが、龍造寺隆信は不覚をとってしまいます。

戦場となったのは沖田畷で、広大な湿地と深田が広がる場所でした。

道幅も狭く、大軍の利を生かすことができない場所です。

龍造寺軍は湿地のため思うように進めず、道幅も狭いため畷の一本道に誘い込まれてしまったのです。

そこを銃撃され、大混乱に陥ります。

そして、龍造寺隆信は、島津の軍勢に見つかりその場で首を斬られてしまいました。

不利な地形へと誘いこまれて、敗北することとなったのです。

龍造寺隆信の享年は56でした。

龍造寺隆信をめぐる逸話

龍造寺隆信は、一代で九州の三強と呼ばれる地位にまで上り詰めた人物です。

決断力に優れた豪胆な人物でしたが、冷酷な一面も持ち合わせていました。

隈府城主であった赤星統家は龍造寺隆信に二人の子を人質として差し出していましたが、隆信の命令に従わなかったため二人とも殺されています。

それを恨みに思い、赤星統家は島津家の傘下となり沖田畷の戦いでは先鋒を務めました。

また、島津氏に内通した一族まで皆殺しにしたりもしています。

それが周囲にいる人々の猜疑心を招き、離反する原因にもなりました。

まとめ

龍造寺隆信は晩年、隠居して嫡男の政家に家督を譲りますが、実権は握り続けていました。

有田・島津の連合軍と戦った沖田畷の戦いにおいて、圧倒的な兵力がありながら不利な地形に誘いこまれ討ち取られました。

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