西郷従道は西郷隆盛の弟で、兄と同じ軍人の道を歩んでいます。
しかし、その最期は非業の死を遂げた西郷隆盛とは全く違うものでした。
西郷従道の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。
西郷従道とは?
西郷従道は薩摩藩の出身で、西郷隆盛の弟として知られています。
隆盛とは15歳離れており、両親と死別した後は隆盛が親代わりを務めました。
戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを始め各地を転戦しています。
明治維新後は山縣有朋と共に渡欧して兵制を視察しました。
1871年には陸軍少将に任じられています。
兄の西郷隆盛が征韓論争に敗れて下野しましたが、従道はそのまま政府に留まりました。
西南戦争では、隆盛ではなく政府の側に組します。
西郷従道の晩年
西南戦争後に西郷従道は、参議、文部卿、陸軍卿、農商務卿といった役職を歴任します。
山縣有朋と並んで政府の重要な立場にありました。
内閣制度が発足すると、海軍大臣に就任します。
海軍では日清・日露戦争で日本の勝利に大きく貢献した山本権兵衛を抜擢するなど、辣腕をふるいました。
長く海軍の整備に尽力し、1894年には海軍大将となっています。
そして1898年には海軍軍人として初めて元帥称号を授けられました。
西郷従道の最期
西郷従道は、1902年に目黒にあった自邸で死去しました。
死因は胃癌だったといわれています。
西郷従道と西郷隆盛の関係
西郷従道の人生は、国民的な英雄であった兄の西郷隆盛とは切っても切り離せません。
親代わりでもあった隆盛ですが、思想的にも多大な影響を受けました。
また、従道は明治維新後に異例の出世を遂げています。
フランスの兵制を視察したり、兵部権大丞・陸軍少将に任じられたりしています。
これは兄である西郷隆盛の影響もあったと考えられます。
西郷隆盛は明治維新の最大の功労者であり、明治政府においても重要な地位にあったからです。
しかし、西郷隆盛は征韓論に敗れて下野し、西南戦争が勃発することになりました。
この時、従道は兄に従わずに政府に残る道を選んでいます。
その辺りの経緯ははっきりしませんが、隆盛が従道に政府に残るように諭したという逸話もあります。
西郷隆盛は政府と戦うことを望んではおらず、西南戦争も負けると分かっていたけれど周りに担がれて仕方なく覚悟を決めたという事情もありました。
可愛がっていた弟を巻き込みたくないと思ったのかもしれません。
ちなみに西南戦争が終わったことを明治天皇に告げたのは、西郷従道だったといいます。
明治天皇は隆盛の人柄を気に入っており、その死を悲しんだ一人でした。
晩年、西郷従道を内閣総理大臣に推す声もありましたが、兄が西南戦争で逆賊となったことを理由に断っています。
まとめ
西郷従道は西郷隆盛の弟ですが、兄が西南戦争を起こした時には政府に留まり兄には組しませんでした。
その後、海軍大臣に就任し、海軍軍人として初めて元帥になっています。
そして、胃癌のため亡くなりました。