戦国時代の武将「山中幸盛」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?
おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。
「山中幸盛」とは?簡単に説明
「山中幸盛(1545年?~1578年)」とは、一時は山陰の覇者だった尼子氏に仕えていた武将です。
別名を「山中鹿介」といいます。
「尼子三傑・尼子十勇士」の一人で、武人としての強さから「山陰の麒麟児」とも呼ばれました。
幸盛は毛利元就に滅ぼされた尼子氏の再興にその人生の大半を費やした忠臣です。
三日月に向かって「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話もあります。
数々の一騎打ちに勝利するほど武力のある幸盛でしたが、中国地方の大勢力となった毛利氏の前についに尼子氏を復興させる悲願を果たすことはできませんでした。
「山中幸盛」の晩年
「山中幸盛」は、毛利氏の反撃を受けて「第一次・第二次の尼子氏再興運動」に惜しくも失敗します。
その後、「山中幸盛」は織田信長に従い、明智光秀や織田信雄の傘下で勇猛な戦いぶりを示していくつもの武功を挙げました。
晩年の山中幸盛は、尼子氏の旧勢力圏を復活させるため、豊臣秀吉の「中国征伐」に従って戦い、主君の尼子勝久と一緒に上月城に入りました。
この上月城を守って毛利氏の大軍と戦う篭城戦が、幸盛にとって生死を分ける最後の戦いとなるのです。
「山中幸盛」の死に様
劣勢をものともせず尼子氏再建に燃える「山中幸盛」でしたが、天正6年(1578年)の「上月城の戦い」でその命を落とすことになります。
羽柴秀吉の中国征伐で落とした「上月城」に入った尼子勝久・山中幸盛らでしたが、2月半ばに三木城の別所長治が毛利氏に味方すると、4月に吉川元春・小早川隆景の約3万の大軍が押し寄せて包囲されます。
秀吉が撤退して援軍にも期待できなくなったため、7月5日に降伏して尼子勝久・尼子助四郎は切腹させられ、幸盛・立原久綱は人質にされました。
幸盛は備中松山城にいた毛利輝元の元に護送されていました。
しかし7月17日、その途中の備中阿井の渡で、家臣の福間元明に殺害されてしまったのです。
「山中幸盛」の死に様の信憑性
「山中幸盛」が尼子氏・尼子勝久を再び勃興させるために、羽柴秀吉に従って中国攻めに参加して、播磨国の上月城(こうづきじょう)を拠点にしたことは確かです。
主君の尼子勝久と共に毛利氏の攻撃を上月城で凌ごうとした山中幸盛でしたが、天正6(1578年)7月、吉川元春らに包囲されて落城・降伏し捕縛されました。
勝久は切腹させられ、幸盛は備中に在所のあった毛利輝元のところへ護送される途中で福間に殺されました。
この幸盛の謀殺に関して、「福間元明覚書写」などに記録が残されているのです。
まとめ
「山中幸盛」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?
「山中幸盛」は、毛利氏との戦いに敗れて、毛利輝元の元へと送られる途中の「備中阿井の渡(現在の岡山県高梁市落合)」で殺されました。
「山中幸盛」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。