「伊達成実」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「伊達成実」の死に際とは?日本の人物

戦国時代~江戸初期の武将「伊達成実」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「伊達成実」とは?簡単に説明

「伊達成実(だてしげざね,1568年~1646年)」とは、伊達家の重臣で「独眼竜」で知られる伊達政宗の右腕としても知られる武将です。

「武の伊達成実」と呼ばれてその武勇を恐れられた成実は、知略に秀でた「智の片倉景綱(かたくらかげつな)」と並んで「伊達の双璧」と呼ばれることもありました。

伊達家が奥羽地方を制覇するための戦いである「人取橋の戦い(1586年)」「郡山合戦(1588年)」などで活躍しました。

伊達政宗が秀吉に帰順した後、成実は「小田原征伐・朝鮮出兵」にも従軍しましたが、その後に謎の出奔(失踪)をして角田城を没収されています。

しかし、片倉景綱らの説得を受けて、関ヶ原の戦いの後に伊達家に戻り、再び伊達家の重心として献身的に働きました。



「伊達成実」の晩年

「伊達成実」「謎の出奔・失踪(1595~1598年)」をしてから、関ヶ原の戦いの後に伊達家に帰参して後半生が始まります。

亘理城(亘理要害)に拠点を移した成実は、豊臣家をつぶす大坂冬の陣・夏の陣に参加したり、最上氏改易で野辺沢城の接収を行ったりといった重要な役割を果たしました。

晩年の成実は亘理領内の農地改革・灌漑事業・塩田開発などに注力して、所領の石高を大きく増やしました。

石高が増えすぎて藩が取り決めた上限を超え、所領を接収されるほど優れた農政の才能を発揮したのです。

1646年2月には、現役を引退して家督を宗実に譲りました。



「伊達成実」の死に様

「伊達成実」は幕府が成立して以降は、仙台藩にある所領の農地の改良(灌漑用水の再整備)や塩田開発に力を入れて、石高が藩が定めた上限を上回るほどでしたが、正保3年(1646年)2月9日に成実は引退します。

伊達成実はこの引退に際して、養嗣子(後継の養子)にしていた伊達宗実(だてむねざね,主君伊達政宗の9男)に家督を譲りました。

2月の時点ですでに自分の天命がもう長くはないことを悟っていたのかもしれません。

正保3年(1646年)6月4日に静かにこの世を去りました。

享年79歳。

「戦・暗殺」などはなく高齢であるため、寿命が尽きての老衰・死亡と推測されます。

「伊達成実」の死に様の信憑性

「伊達成実」の前半生は伊達家躍進のための戦乱に明け暮れましたが、後半生は仙台藩と幕府との間の仲介役などの大役を果たしながら安定した人生を送りました。

伊達成実が正保3年(1646年)の6月4日に79歳で死去したときには、すでに伊達政宗の9男・宗実に家督を譲っていて、老衰を自覚していたと考えられます。

1646年は江戸幕府(3代将軍・徳川家光)が治める「天下泰平の世」になっていて「戦」などもないため、成実が79歳で天寿をまっとうして死去したことには信憑性があります。

まとめ

「伊達成実」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

伊達家の重臣として活躍した「伊達成実」は、家督を伊達宗実に譲った後の1646年7月に、当時としては高齢の79歳で大往生しました。

「伊達成実」の死に様について詳しく調べたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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