「フリードリヒ・ニーチェ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「フリードリヒ・ニーチェ」の死に際とは?世界の人物

「天才哲学者」と称されたドイツの哲学者であるフリードリヒ・ニーチェは55歳で亡くなっています。

今回は、「次の2世紀はニヒリズムの時代である」と予言した彼の死因に迫ります。

「フリードリヒ・ニーチェ」とは?簡単に説明

1900年にドイツ北部に広がるプロイセン王国で生まれたフリードリヒ・ニーチェは、思想家や古典文献学者として知られる人物で、「天才哲学者」と称されていました。

幼いころから音楽や国語で類まれなる才能を発揮していたニーチェは、ドイツ屈指の名門校であるプフォルタ学院に入学してローマの古典や哲学などを学び、進学したボン大学では神学部と哲学部に所属します。

在学中にダーヴィト・シュトラスの「イエスの生涯」に感化され、キリスト教を放棄したニーチェはその後ライプツィヒ大学へ転入し、卒業後執筆活動を開始します。

この時期、数多くの書籍を出版していたニーチェでしたが、順調な執筆活動の反面、彼の精神は病んでいきます。

1889年、発狂したニーチェは精神病院へ収容され、10年間の闘病の末、肺炎を患ったことにより55歳で死亡しています。



「フリードリヒ・ニーチェ」の死に様

1900年8月25日、フリードリヒ・ニーチェは入院していた精神病院において、肺炎を患ったことが原因で55歳で亡くなっています。

精神病院に収容されている最中の訃報のため死因は精神病と囁かれていましたが、彼が入院することになった直接的な理由は脳梅毒に侵されてしまったことによる躁病や人格の変化に加え、重度の認知症などの精神疾患を発症してしまったことによるものでした。

症状にみられる赤い発疹により「ヤマモモ」という病名を付けられた「脳梅毒」に侵された彼は、10年間におよぶ闘病中、躁病や失明などに悩まされ、晩年には文字を書くこともできなくなっていたそうです。

ニーチェが梅毒を罹患した当時は血清学的診断やDNA診断などはなく、治療方法も確立されていませんでした。



「フリードリヒ・ニーチェ」の死に様の信憑性

梅毒患者だったフリードリヒ・ニーチェは、左右瞳孔径の違いや躁うつ病などに悩まされ、人格の変化や重度の認知症などの精神疾患を発症していました。

20世紀にペニシリンが出現するまでは、治療法が確立されていなかった梅毒は、罹患してしまうと全身に広がっていき、肌やリンパ節だけではなく脳も冒し始める病でした。

晩年、病気に神経系を冒されてしまい、脳の炎症反応により神経線維の束をも破壊されてしまっていたニーチェは、自分の尿を飲み、便を口にし、その便を壁や自分の体に塗りつけるなどという奇行に走ります。

奇声を発しながら興奮状態から抜け出せないニーチェは、晩年のほとんどを無意識状態のまま過ごしていたと言います。

精神病で亡くなったと噂されていた彼の奇行は、すべて脳梅毒による症状でした。

「フリードリヒ・ニーチェ」の小ネタ等

「19世紀の古い価値観を打破したい」というフリードリヒ・ニーチェの想いは、戦後数多くの人たちから評価されることになります。

彼が書き上げた「悲劇の誕生」「悦ばしき知識」などは、ニーチェの根本思想を現す重要書籍として知られています。

まとめ

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは梅毒に侵され、55歳で亡くなっています。

生前はあまり評価されていなかった彼の思想や書籍は、戦後を迎えて再評価され、現在においても重要文献として重宝され続けています。

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