蝦夷地の松前藩支配を決定づける戦犯に?
「シャクシャイン」の散り際とは?この記事ではシャクシャインの晩年と最期について解説していきます。
「シャクシャイン」とは?簡単に説明
元々は現在の日高地方とそれ以東のメナシクルと呼ばれる地域の惣乙名です。
惣乙名は幕末に改称、本土同様に庄屋になっており、その役割は同じだと言っていいでしょう。
諸説ありますが、メナシクルの具体的範囲は現在の静内から厚岸までと広大。
よってこの地域を統治するシャクシャイン氏もそれなりの力の持ち主でした。
現在の門別、札幌、千歳を支配していたシュムクルとの闘いは先代以前から続いており、松前藩の調停を受けるほど。
アイヌ民族同士での闘い、先代の敵討ちに力を入れた生涯だったと言っていいでしょう。
「シャクシャイン」の晩年
アイヌの民族間の対立は激しく、先代の「カモクタイン」氏は「オニビシ」氏によって殺害されています。
それによりメナシクルの惣乙名になりました。
リベンジはそれから15年後。
シャクシャイン氏は先代の敵討ちに成功します。
しかしこれを遠因として、アイヌ民族が纏まるとは思いもよらぬ出来事だったといえるでしょう。
ハエのアイヌの使者は松前藩に調停を求めるも、1655年の裁定通りにどちらかに肩入れはしない方針を示しました。
しかし使者が天然痘で亡くなったのを毒殺と捉えたシャクシャイン氏は和人と闘う決意を固め、アイヌ民族の一斉蜂起を呼びかけました。
しかしアイヌ陣営は元々一枚岩ではなく、物量戦では明らかに不利。
さらには籠絡された部族も多々いたことで、苦しい立場に追い込まれていくことになりました。
「シャクシャイン」の死に様
一斉蜂起したもの、松前藩の火力、鉄砲の威力に戦況は悪化。
一方で松前藩にも早期の事態収拾を図りたいのは明らかでした。
ツクナイの宝物の提出で指導者陣の命の保障をした上で松前藩は和睦を提示。
シャクシャイン氏は徹底抗戦を翻すとピポクの松前藩陣幕を訪れ、かりそめの和議を結びました。
その後の酒宴で酔ったところを囲まれ誅殺。
63歳没。
「シャクシャイン」の死に様の信憑性
武士道による武士のイメージはドラマや漫画から正々堂々と闘うことを連想させるかもしれません。
しかし実際には武家政権が成り立った鎌倉時代から、騙し討ちや不意打ちは認められていたのは言うまでもありません。
戦国時代にも形だけの和睦で宴会に呼び出して誅殺というのは未遂事件も含めれば数え切れないほど。
またシャクシャイン氏の場合は武士の常識を知らずに呼び出され誅殺されていますが、この場合笑いものになったのはシャクシャイン氏だったと言えるでしょう。
いわゆる“不心得者”としての認識しか松前藩側にはなかったと言えます。
まとめ
「シャクシャイン」氏は1669年11月16日に死亡しています。
現在の北海道新冠町にあったピポク松前藩の陣幕に呼び出され、講和を目的とした和睦の酒席で誅殺されています。
63歳没。
アイヌ一斉蜂起の指導者とされますが、誅殺直前には孤立化。
その影響力は減少していたとも。
松前藩、武士の価値観からすれば、戦況が悪化していたとはいえ、助命を求めてきた不心得者にしか過ぎなかったとも言えます。