世界でもっとも有名なマフィアといってもよい「アル・カポネ」の生涯とは?
「アル・カポネ」とは?簡単に説明
頬に傷跡があったことで「スカーフェイス」と呼ばれていたアル・カポネは、アメリカ合衆国のギャングでした。
1899年にニューヨークのブルックリン地区で生まれた彼は、イタリア系アメリカ人の家庭で9人兄弟の四男として誕生しています。
1920年代以降の禁酒法時代のシカゴで暗躍したアル・カポネは、酒の密造や販売に加え、売春業や賭博業などの犯罪組織を率い、徐々に暗黒街の顔役として名を馳せるようになります。
若干26歳にして犯罪組織のトップに立ったカポネは、市議会議員や警察などの官憲を買収することにより、組織の勢力を広げていき、それによって安泰化を図っていきます。
後に映画化もされる「アンタッチャブル」と呼ばれた密造酒の調査チームは、カポネを追い続け、ついに脱税などの罪状で告発することに成功します。
1931年から始まった脱税裁判で、カポネは合計11年の懲役と罰金8万ドルの有罪判決を受け、イリノイ州にあるクック郡刑務所に収監されます。
その後、監獄島と呼ばれるアルカトラズ刑務所に移送されたカポネでしたが、このころから若い時に感染していた梅毒が悪化し始め身体を蝕んでいきます。
1939年に釈放されたカポネでしたが、梅毒の進行と共に心身も衰弱していき、8年後の1947年に死亡します。
「アル・カポネ」の晩年
1931年、クック郡刑務所に入所したアル・カポネは、すぐに所長や職員を買収し、服役中にもかかわらず刑務所内とは思えない豪華で快適な生活を送り始めました。
翌年、カポネはジョージア州アトランタの刑務所に移送され、同年サンフランシスコのアルカトラズ刑務所に収監されることになります。
この時期、若い頃に感染していたと思われる梅毒の症状が出始めたカポネは、ギャングとして名を馳せた当時の神通力もすでになくなりつつあり、囚人仲間たちとの関係まで悪化していました。
1936年には、梅毒の症状によってさらに心身ともに衰弱し始めていたカポネは、刑務所内のストライキを巡って他の囚人と揉めたことで、独房内で頭から毛布をかぶり泣きじゃくっていたといいます。
気分の浮き沈みが激しく、自分の感情をコントロールできないのは、痴呆症状の一つであり、梅毒に侵されていたカポネはこれを機にさらに心身共に弱っていくのです。
刑務所内で梅毒治療を試みるものの、当時は梅毒の特効薬は存在せず、カポネの衰弱は日に日に進行していったため、1939年にはロサンゼルス近くの連邦矯正施設に移送されます。
しかしながら、梅毒に蝕まれていたカポネは、既に現実と妄想の区別さえ付かないようになっており、理性を保つこともままならない状態でした。
「アル・カポネ」の死に様
1939年11月、アル・カポネはついに釈放されますが、釈放当時の彼は、8年前にクック郡刑務所に入所した時のカリスマ性を感じさせる自信に満ちあふれた人物とはまるで別人だったと言います。
出所したものの、カポネはボルチモアにあるユニオン記念病院で、4か月にわたり梅毒の治療を受けることになり、その後、家族と共にフロリダのパームアイランド島にある家で生活し始めます。
1945年には、梅毒治療として民間人では世界で初となるペニシリンを投与されたカポネでしたが、すでに病気に蝕まれて衰弱しきっていた身体にはほとんど効果がなく、梅毒の進行を止めるまでには至りませんでした。
第2次世界大戦終結後の1947年1月25日、カポネはついに脳卒中とそれに伴う肺炎の併発により、48年間におよぶけっして長いとは言えない生涯に幕を下ろすことになりました。
「アル・カポネ」の小ネタ等
当時としては大柄な身長179cmだったアル・カポネは、若い頃には大変な家族思いの青少年で、稼いだお金はそのまますべて母親に渡すような純粋さを持ち合わせていたと言います。
歴史上最も有名なギャングとして知られるカポネをモデルとした映画やテレビドラマは、枚挙にいとまがないほど制作され、その中でも特に、アル・パチーノ主演の「スカーフェイス」や、ケビン・コスナーとロバート・デ・ニーロのダブル主演「アンタッチャブル」などが人気を集めています。
まとめ
元々は単なる「集団」という意味だった「ギャング」という言葉は、アル・カポネが世に出て、暗躍し始めたころから「暴力集団」「ならず者」などという意味が定着するようになりました。
多くの人々から「スカーフェイス」と呼ばれ、恐れられたギャングであるカポネにも、愛する妻のメエと息子のソニーがおり、死を迎えるまでのわずかなひとときを家族と共に過ごすことができたのは、本来優しい少年だったカポネへのはなむけだったのかもしれません。