この記事では、「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」とは?簡単に説明
陳腐な表現になりますが、20世紀のクラシック音楽界において、その知名度の高さと魔術師と呼ばれる音楽性、プロデュース能力に長けていた人物と言っていいでしょう。
日本でもその知名度は高く、漫画で音楽家が登場するシーンでは大抵カラヤン氏かベートーベン氏のどちらかがモデルになることからもわかるはずです。
特にバブル期の日本とは縁が深く晩年はドイツ・グラモフォンからソニーへの移籍、サントリーとはサントリーホール世界一美しいコンサートホール建設への提言も行っています。
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の晩年
1983年ドイツのハノーヴァーで脊髄の大手術を行ったのは有名ですが、頸椎、脊髄、椎間板と体幹部にダメージが蓄積されていくのは指揮者の宿命であるがゆえと言っていいでしょう。
人気指揮者で公演の回数が増えれば、それはなおさらのこと。
晩年は椎間板ヘルニアの予後もよくなく、片足の自由が効かなかったとも。
それでも88年には日本、89年にはニューヨークと体調が危ぶまれるなかでの長距離移動、公演に参加。
精力的な活動を最晩年まで続けたと言っていいでしょう。
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の死に様
1989年7月16日13時30分オーストリア・ザルツブルクの私邸で大賀ソニー社長との歓談を終えた直後に容態が急変。
ヘリコプターで緊急搬送されましたが、蘇生は叶わず永眠することになりました。
81歳没。
死因は心疾患によるもので亡くなる直前には主治医が診療に訪れていました。
左胸が調子悪いと語ったとされ、これが前兆だったものと思われます。
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の死に様の信憑性
長年に渡り、指揮で腕を動かし続けた弊害で脊髄や頸椎、椎間板に問題を抱えていたのは間違いありません。
人気指揮者となれば、頭や腕を激しく動かす回数は必然的に増え、尚更この職業病は悪化する一途でした。
また78年に指揮台から落ちたおりに発症した脳梗塞も死因の遠因にはなったと言えるでしょう。
また心臓病も患っていたとされ、亡くなる直前には主治医がメディカルチェックで心電図を取りに訪れていました。
亡くなった当日に感じていた左胸の調子の悪さは虚血性心疾患の前兆だった可能性が高いように思われます。
オーストリア通信によれば大賀ソニー社長ら一行が暇を告げた直後に容態が急変。
主治医の診療をキャンセルしてからわずか20分後のことでした。
まとめ
「ヘルベルト・フォン・カラヤン」氏は1989年7月16日13時30分にオーストリア・ザルツブルク郊外アニフの自宅で亡くなっています。
当日は知己の大賀氏がドイツから来訪。
機械好きなカラヤン氏はベッドで対応すると、新しいメディア機器について歓談、盛り上がったとされています。
その一方で左胸の調子が悪いと大賀氏に打ち明けますが、ルーチンとして知られる早朝6時からのプールトレーニングは当日も消化していたようです。
歓談中に主治医が心電図採取に訪れますが、それをキャンセル。
大賀氏が暇を告げたところでカラヤン氏の様子がおかしくなり、そのまま大賀氏に抱かれたまま心肺停止を迎えました。
ヘリコプターで病院に移送されるも蘇生は叶いませんでした。
81歳没。