今もなお根強く残る暗殺説「中川一郎」の散り際とは?
この記事では中川一郎の晩年と散り際について解説していきます。
「中川一郎」とは?簡単に説明
北海のヒグマと呼ばれる実力者として知られ「渡辺美智雄」「石原慎太郎」諸氏らと『青嵐会』を結成。
その後「福田赳夫」内閣時代に国民運動本部長を務める活躍を見せています。
喧嘩屋として知られ、渡辺氏との対立など逸話は数々。
それ以上に有名なのが、その亡くなり方だと言っていいでしょう。
現在でも中川氏の名前を検索すると暗殺や米国・ソ連の特殊機関やスパイなど不穏な言葉がサジェストされます。
真偽はさておき、その死に方に大きな謎が残ったことで有名な議員だと言っていいでしょう。
「中川一郎」の晩年
福田政権下で政敵「大平正芳」氏の政権樹立を最後まで拒んだのは語り草。
その後「鈴木善幸」内閣では反主流派ながらも科学技術庁長官に任命されています。
1982年10月鈴木氏が総裁選不出馬を自ら決めると自民党総裁選挙・予備選に出馬。
しかし状況は厳しいものがありました。
「中曽根康弘」氏は鈴木氏の外遊時に幾度となく首相臨時代理に指名され、既に後継者と見なされていました。
また三角大福中と呼ばれる自民党政治家最後の大物であり基盤は圧倒的。
さらに鈴木氏の党内融和の方針もあり、中川氏は大惨敗を喫っします。
この予備選後から中川氏の様子に変化が見られるようになりました。
「中川一郎」の死に様
1983年1月9日、札幌パークホテル10階1022号室の浴室で亡くなっているのを夫人が発見。
57歳没。
死因は急性心不全と公表されましたが2日後に自殺に変更されています。
「中川一郎」の死に様の信憑性
青嵐会に所属していたこともあり、生粋の国粋主義者かつ反共主義者と思われていました。
しかしCIAの諜報活動で親ソ連政権樹立を支持していたことが露見。
これにより有名な『ペルソナ・ノン・グラータ』を理由に米国への入国拒否をされてしまいます。
同盟国の首相名代が入国拒否されるのは異例中の異例で当時大きな波紋を中曽根内閣に投じることになりました。
陰謀説はこれに派生しており、KGBがCIAが暗殺したとモスクワに暗号打電した事実から生まれています。
自殺説に関しては総裁選で福田派から「安倍晋太郎」氏に投票する予定の人員を借りた事で金銭的にも人間関係的にも消耗してしまった故にが定説。
福田氏の前で自身の第1秘書鈴木氏への恨み節を吐露したとも言われます。
他殺説はCIAではなく逆にKGBに暗殺された内容やソ連からの政治献金が中曽根、後藤田ラインに知られて脅迫されたものなど多々あるのが事実です。
いずれにせよ総裁選・予備選後に不眠症になり睡眠薬を多用するなど、精神的に消耗していた事実は間違いありません。
まとめ
1983年1月9日札幌のホテルの自室バスルームで浴衣の紐で首を吊った姿を夫人に発見されました。
蘇生は叶わず死亡が確認され、死因は急性心不全と発表されています。
しかし2日後に自殺に死因が変更され、同日早急に火葬したことで秘書官の対応に疑問の声が挙がっています。
自殺、他殺、陰謀論と今もその死については紛糾。
死後30年近く経過した2010年、夫人が当時の第1秘書鈴木氏の裏切りから中川氏が追い込まれ自殺したと糾弾記事が発表されました。
対する鈴木氏からも死の原因は夫人にあるとの反論があり泥沼化。
当時の関係者の多くが故人になっていることもあり、真実は永遠に闇の中だと思われます。