事件から50年経過後も謎が多く残る「サム・クック」の散り際とは?
この記事ではサム・クックの晩年と散り際について解説していきます。
「サム・クック」とは?簡単に説明
ブラックソウル&R&B発展期のスーパースターであるとともに、ポップミュージックでも確かな爪痕を残したシンガーだと言っていいでしょう。
ビルボード2位となった『チェイン・ギャング』はもとより自身が作詞作曲した『ツイストで踊りあかそう』もヒット。
日本でもリスペクトされ、タイトル名を使われている曲も多く存在します。
また音楽活動だけに留まらず、50~60年代に生きた黒人著名人同様に積極的に公民権運動にも参加しました。
「サム・クック」の晩年
公民権の適用と人種差別の解消を念頭に50~60年代に生きた多くのアフリカ系アメリカ人著名人同様に積極的に活動に参加しています。
そのアンセムとなったのが『A Change Is Gonna Come』だと言っていいでしょう。
同曲は史上最高の楽曲との評価も高く、アメリカの歴史にも残る名曲となりました。
クック氏の死に関する陰謀論では理由に挙がることが多いもの、実際の発表は死後二週間経過後となっています。
「サム・クック」の死に様
1964年12月11日、10日にバーで知り合った女性をモーテルに連れ込みました。
サム氏がシャワーを浴びている最中に女性は逃走。
これに気付いたサム氏はジャケット1枚だけを羽織って追いかけます。
女性は既にモーテルの外へ逃げると3時9分にロス警察に通報。
一方サム氏は管理人室へドアを壊して侵入。
女性がいないことを確認したうえで女性の行き先を管理人に尋ねました。
管理人が行き先を知らないと告げるとサム氏は激昂。
揉み合いになった末、女性が拳銃を3発発射。
うち1発が胸に命中。
トドメとばかり箒が折れるほど強く頭部を殴打されたことで事切れてしまいます。
1964年12月11日3時15分没。
死因は銃弾による心臓損傷でした。
「サム・クック」の死に様の信憑性
死後50年の2014年に検証が様々な国や媒体でされています。
公民権運動と結びつけた陰謀論を主張する人もいれば、彼が離婚間際だったことなどから身内、知人説など様々な説が流れました。
しかし来年2024年は没後60年になりますが、新たな進展は期待薄と言っていいでしょう。
流れをザッと振り返るとバーにレコード会社関係者が娼婦を連れて現れます。
彼女を気に入ったサム氏が飲みに誘いますが、バーの後にモーテルへ強引に連れ込みました。
彼女は行為は本意ではなく逃走。
これに気づいたサム氏はシャツやズボンまで盗られたため、ジャケット一枚羽織っただけで彼女を追いかけました。
その後管理人室へ突入、揉み合いの末に銃を3発発射、うち1発が心臓を貫通して死亡した流れとなります。
サム氏の所持品が免許、クレジットカード、少なくとも前日引き下ろした5000ドルは入った財布、貴重品の行方が不明。
このため女性と管理人が共謀した可能性もあるため、嘘発見器にかけるも無反応でした。
これにより正当防衛が成立したもの証言に矛盾もあり、疑問が多々あったことで謎が深まることになりました。
まとめ
1964年12月11日3時15分前後に永眠。
死因は肺及び心臓を損傷したことによる失血死。
33歳没。
管理人の正当防衛が成立していますが、証言の不一致や様々な疑問、矛盾があるのは事実です。
しかし当事者の多くが亡くなっており、今後も真相は明らかになることはないと言えるでしょう。