「マイルス・デイヴィス」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「マイルス・デイヴィス」の死に際とは?世界の人物

「モダン・ジャズの帝王」と呼ばれたマイルス・デイヴィスの死因とは?

「マイルス・デイヴィス」とは?簡単に説明

1926年にアメリカ合衆国のイリノイ州で生まれたマイルス・デイヴィスは、ジャズの巨人と称されたアメリカのジャズトランペット奏者です。

13歳になった時に父親からトランペットをプレゼントされたことがきっかけで演奏をし始めたマイルスは、わずか2年後にはセントルイスのクラブに出演するようになります。

この時期に数多くのジャズプレイヤーを間近で見ながら演奏の技術を学び、18歳になるとニューヨークのジュリアード音楽院に入学しています。

1950年代には麻薬使用による問題で、一時期演奏活動から遠ざかっていたマイルスですが、50年代後半になると立ち直り、再びアメリカのジャズ界をけん引する活躍をし始めます。

60年代には新しい8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した高水準の演奏を披露し、70年代には今までよりもリズムを強調したスタイルへと変貌して、よりハードな音楽を展開し始めます。

1973年に初来日して初めて日本人の目の前でライブを開催したマイルスは、80年代には合計6回も来日して公演を行い、その模様はNHKテレビでも放映されています。

度重なる来日により日本のファンからは「モダン・ジャズの帝王」と呼ばれたマイルスは、1991年9月28日肺炎と呼吸不全などによる合併症のため、カリフォルニア州サンタモニカの病院で65歳で死去しています。



「マイルス・デイヴィス」の死に様

マイルス・デイヴィスは絶頂期ともいえる1970年代頃から体調を崩し始め、胃潰瘍や声帯にできたポリープの手術などを受けており、さらに交通事故の後遺症により股関節の状態が悪化したことで、再手術を受けています。

1972年に睡眠薬を飲んだ状態で愛車のランボルギーニを運転していたマイルスは、居眠り運転のためガードレールに突っ込んでしまい、手術は成功したものの、その後も全身に渡る激痛に苦しめられ続けていたと言います。

しかしながら、80年代に奇跡のカムバックを果たしたマイルスは、文字通り「生きる伝説」となりますが、90年代に入るとそれまでの体調不良が再び襲ってきます。

そして1991年8月25日にロサンゼルスで開催された「ハリウッドボウル」のコンサート後に意識不明になり、緊急入院することになったマイルスは、同年9月28日に肺炎と呼吸不全による合併症を起こして脳卒中で亡くなってしまいます。



「マイルス・デイヴィス」の死に様の信憑性

当初は肺炎でサンタモニカの病院に入院したマイルス・デイヴィスでしたが、入院後数日間におよぶ精密検査の結果、肺に水が溜まっていると診断されています。

肺の機能が低下してしまっていたマイルスは、呼吸を楽にするための処置で肺に管を入れることになりましたが、主治医はこの処置についてマイルス本人には詳細を知らせておらず、実際に肺に管を入れた後に自身の身体の異変に気付くことになります。

目を覚ました後、自分の身体に入っている管に気づいたマイルスはパニックに陥り、発声しにくい状態のまま声を絞り出すように「死にたくない」と言ったそうです。

そして、このパニックと恐怖心により心臓発作を併発してしまい、そのまま昏睡状態に陥ってしまいます。

その後、この昏睡状態は1か月近く続き、ついには意識が戻らないまま危篤状態になり死亡してしまうのでした。

「マイルス・デイヴィス」の小ネタ等

マイルス・デイヴィスは、グラミー賞に合計32回ノミネートされており、そのうち8回受賞しています。

また、彼のリリースしたアルバムの内11枚がグラミー殿堂賞を受賞しており、特別功労賞生涯業績賞も授与されています。

さらに、1998年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにその名を刻み、2006年にはロックの殿堂入りも果たしています。

まとめ

生涯にわたって常に挑戦を続け、その時代における最高の作品を世に送り出してきたマイルス・デイヴィスは、まさに「モダン・ジャズの帝王」と呼ぶに値する不世出のアーティストと呼ぶに相応しい人物と言えます。

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