戦国武将の「蒲生氏郷」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?
おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。
「蒲生氏郷」とは?簡単に説明
「蒲生氏郷(がもううじさと,1556年~1595年)」とは、織田信長・豊臣秀吉に従った戦国武将です。
織田信長から厚遇されて信長の次女(相応院)を娶りました。
「姉川の戦い・長篠の戦い・有岡城攻め」などの重要な戦いに参加して武功を上げています。
本能寺の変の後は秀吉に従い、「賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦い・九州征伐」で武功を上げて豊臣政権で地位を高めました。
1590年以降は陸奥国会津を拠点にし、会津藩発展の基礎を築きました。
「蒲生氏郷」の晩年
「蒲生氏郷」の前半生は織田信長に従って戦場を駆け巡りましたが、後半生は豊臣秀吉の重臣として全国統一のための戦いで秀吉に貢献しました。
蒲生氏郷の晩年は、天正18年(1590年)の奥州仕置で伊達政宗を押さえ込むために、(細川忠興が辞退したこともあり)陸奥国会津に配置されたことに始まります。
黒川城を「鶴ヶ城」に改築して、地名も黒川から「若松(会津若松)」へと変えました。
氏郷は楽市・楽座を開設して、江戸時代以降の会津若松の商工業が発展していくための前提条件を整えました。
秀吉が断行した朝鮮出兵の「文禄の役(1592年)」では肥前名護屋城には赴いたものの、その陣中で体調を崩したと伝えられています。
体調がさらに悪くなって陣中生活に耐えられなくなったため、文禄2年(1593年)11月に会津に帰国、さらに文禄3年(1594年)に病気療養も兼ねて会津から京都に移りました。
「蒲生氏郷」の死に様
「蒲生氏郷」は、秀吉が李氏朝鮮を足がかりに中国の明まで制覇しようと目論んだ「朝鮮出兵・文禄の役」の頃から体調が悪くなっていきました。
肥前国(現佐賀県)の名護屋城にいた氏郷ですが、病状が悪くなるに従って戦陣に留まることが難しくなり、文禄2年(1593年)11月に戻ります。
1594年には会津よりも気候が穏やかな京都で療養することにしますが、病状は悪化の一途を辿りました。
この年の10月、豊臣秀吉が諸大名を招いた大宴会を開催して氏郷も何とか参加しましたが、衰弱していることが明らかだったため、秀吉は氏郷のために曲直瀬玄朔(まなせげんさく)という名医を派遣しました。
しかし治療の甲斐もなく、文禄4年(1595年)2月7日に京都伏見にあった自宅で病死しました。
享年40歳。
「蒲生氏郷」の死に様の信憑性
「蒲生氏郷」が文禄4年(1595年)2月7日に、京都の蒲生邸で病気が悪化して死去したというのは、史料・治療歴も残っている史実なので信憑性があります。
当時の医学・医療の限界もあり、蒲生氏郷が具体的にどんな病気に罹っていたのかの記録は残っていませんが、段階的に病状悪化が進行して衰弱する「直腸・肝臓のがん」のような病気であったと推測されています。
蒲生氏郷は40歳の若さで亡くなり子・孫も早死にしたため、蒲生家は断絶しました。
まとめ
「蒲生氏郷」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?
「蒲生氏郷」は、朝鮮出兵の時期から体調を崩し、がんのような進行性の病気で死んだと考えられています。
「蒲生氏郷」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。