永遠のガキ大将、破天荒なセンターバック松田直樹の晩年と最期とは?
この記事では松田直樹の晩年と最期に迫ります。
「松田直樹」とは?簡単に説明
松田直樹は前橋育英高校からJリーグの横浜マリノスへと入団。
高校サッカーファンには1993『FIFA U-17世界選手権』での中心選手として、「中田英寿」よりも将来を嘱望された選手でもありました。
ガキ大将がそのまま成長した性格であり、表裏のない性格でファンやプレイヤーからも慕われているエピソードが多数あります。
その一方で試合中には罵詈雑言もすれば、監督との対立も多々あり、親友でもある「安永聡太郎」氏やトルシエ・ジーコといった代表監督との逸話はあまりに有名でしょう。
「松田直樹」の晩年
ベテラン選手がクビを切られる形で愛着あるチームを追われてゆくことに警鐘を鳴らしていた松田氏でしたが、自身にも愛着のある横浜マリノスから離れることとなりました。
2008年、2009年と30試合以上に出場。
2010年はそれでもカップ戦と合わせ25試合に出場していますが、クラブは契約満了を提示。
これにより彼は当時JFLであった松本山雅FCへの移籍を決断。
Jリーグ昇格を目指すこととなりました。
「松田直樹」の死に様
マリノスを退団するキッカケとなった2010年の怪我の後遺症は残っており、出遅れながらも試合を重ねることで復調。
7月23日公式戦通算400試合を記録しています。
しかしこれが現役最期の試合となることは誰もが思わなかったことでしょう。
その日は突然訪れ、2011年8月2日の9時58分。
練習中に「やばい、やばい」と言葉を発して倒れこんでしまいます。
運の悪いことに当日の練習場にはAEDが設置されておらず、10時13分に到着した救急車の中で処置がおこなわれますが、その2日後に帰らぬ人になってしまいます。
2011年8月4日、34歳没。
「松田直樹」の死に様の信憑性
死因は急性心筋梗塞であり、その前兆があったかは定かではありません。
惜しむらくは倒れた場所が通常の松本山雅の練習場もしくは前年まで所属していたマリノスのマリノスタウンならばAEDがあったため一命を取り留めることができたかもしれません。
搬送されてからは、補助循環装置を付けたことで、微弱ながらも心拍が戻っていたことが明かされています。
リーガ・エスパニョーラではセビージャの選手が開幕節で突如倒れ、亡くなることがありましたが、日本では現実味もなかったのが事実です。
これをきっかけにJリーグはスタジアム、練習場にAEDの設置を義務化するとともにスター選手はかつて所属していたチームにAEDを寄付。
大学や高校のグラウンドにもAEDが広く普及してこととなりました。
まとめ
松田直樹は2011年8月4日に急性心筋梗塞で永眠しています。
34歳のことでした。
搬送されてからは経皮的心肺補助装置をつけたことにより、微弱ながらも一時的に心拍数が戻ったと言われています。
このためAEDがその場にあったのならば一命を取り留めた可能性も高いと言えるでしょう。
彼の死はスポーツ界の現場にAED設置の普及率を上げる功績をもたらすこととなりました。