「手塚治虫」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解説

「手塚治虫」の死に際とは?日本の人物

「漫画の神様」と呼ばれ、現代においてもその功績が光る手塚治虫は数多くの優れた漫画作品を残してきました。

今回は手塚治虫の死因について解説していきます。

「手塚治虫」とは?簡単に説明

昭和3年に大阪府で誕生した手塚治虫は、戦後における漫画家の第一人者として知られている人物です。

兵庫県宝塚市の名誉市民でもある手塚は、大阪帝国大学附属医学専門部を卒業しており、医学博士としての顔も持っています。

小学校時代からすでに漫画を描き始めていた手塚でしたが、中学校や高校に進学すると軍事色が強まってきていた時期だったため、漫画を描き続けることは簡単ではありませんでした。

それでも精力的に漫画を描き続けることは止めず、戦時中における空襲を避けながらの原体験をつづった自伝的作品なども残しています。

その後、大阪帝国大学に進学した手塚は、この時期に後にヒットする「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」などの有名作品を生み出しています。

終戦後、本格的に漫画家としてデビューした手塚は、昭和25年あたりから雑誌で初めて漫画の連載をすることになり、昭和28年には数多くの漫画家が集った豊島区のトキワ莊に入居しています。

このトキワ莊で数多くの著名な作品を描き続け、昭和40~50年代の漫画ブームを支え続けた手塚でしたが、昭和63年にスキルス胃癌と診断され、翌年60歳で永眠しています。



「手塚治虫」の死に様

昭和63年3月、手塚治虫が59歳の時に突如腹部を激痛が襲い、診断の結果、スキルス性胃がんと診断されてしまいます。

症状が進行する見込みの高い進行性のスキルス胃癌と診断されたことにより、即入院して手術を行い、胃の4分の3を切除して、一旦は退院しますが、退院後の身体は以前よりも衰弱してしまっていました。

その後、再入院や再手術を繰り返しますが、このころにはすでにがんは肝臓にまで転移しており、手を付けられない状態に陥ってしまっていたのでした。

平成元年2月9日、60歳で死亡した手塚は亡くなる直前まで「頼むから、仕事をさせてくれ」と言っていたそうです。



「手塚治虫」の死に様の信憑性

昭和63年にスキルス性の胃がんと診断された手塚治虫でしたが、本人にはがんであることは伏せられていました。

手術で胃を4分の3ほど切除した手塚は、退院後も以前と同じように精力的に漫画を描き続けますが、がんを罹患したその身体はすでにかなり衰弱していました。

この時期、中国の上海で開催されるアニメーションフェスティバルに招待されていた手塚は、出席しなければ国際問題に発展してしまうと危惧して、すでに歩行することすら困難な状態だったものの、このイベントに参加しています。

無事にイベントを終えて帰国した手塚は、帰国と同時に体調を悪化させてしまったため再入院して再手術を受けますが、この手術でがんが肝臓に転移していることが発覚してしまいます。

本人には本当の病状を告知していなかったため、入院中も漫画を描き続けていた手塚は知人や関係者に「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」などとよく懇願していたそうです。

死を迎える数日前には、何度か昏睡状態に陥ったものの、意識が回復する度に「鉛筆をくれ」と漏らしていたそうで、最後まで漫画家としての気概を失っていなかったと言います。

「手塚治虫」の小ネタ等

胃がんで亡くなった手塚治虫には最期までがんであることは告知していませんでした。

しかしながら、彼が入院中に病院で描いていた遺作である「ネオ・ファウスト」において、主要人物が胃がんを患ってしまい、手塚同様、本人には告知されませんでしたが、何故かその本人は自身が胃がんに侵されていることを知っていた上で死亡してしまうという内容が描かれていました。

まとめ

不世出の天才ともいえる「漫画の神様」手塚治虫が残した漫画の数々は、現代においても世界中の多くの人々に愛され続けています。

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