漫画「JIN-仁-」でもその存在が際立っていた江戸時代の医師のトップが『緒方洪庵』です。
劇中では序盤の主人公の理解者となりますが結核でその命を落としてしまいます。
では実在の緒方洪庵の晩年と死に際はいったいどんなものだったのでしょうか?
「緒方洪庵」とは?簡単に説明
緒方洪庵は西洋医学所頭取を務めた人物であり、この時代の人物らしく医師と蘭学者を兼ねた人物でもありました。
江戸時代の後期は安政の大地震や疾病の大流行があり、日本の人口は10%減ったとも言われています。
この時期、コレラ、疱瘡、風疹の流行が度々猛威をふるっていましたが、大阪に適塾を開き私財を投入してまで牛痘法の普及活動を行いました。
これにより日本の近代医学の祖と呼ばれるとともに、多くの人民の命を天然痘ウイルスから救った人物でもあります。
「緒方洪庵」の晩年
洪庵の晩年の5年間で特筆すべき事の1つが1858年6月に天然痘予防の活動を江戸幕府が公認した事です。
またこの年のコレラの流行時には『虎狼痢治準』を書き上げていますが、西洋の医学書を参考にしたものでした。
これを100冊医師に無料配布し、日本の医学の近代化に貢献しています。
また亡くなる前年の1862年に洪庵は幕府の西洋医学所頭取として江戸に出仕。
一旦は固辞したものの度重なる要求に応じての江戸勤務となりました。
江戸では奥医師兼西洋医学所頭取であるとともに14代将軍徳川家茂の待医、さらには「法眼」の地位まで与えられ心労の多い日々だった想像がつくはずです。
さらに1862年は6月から麻疹の大流行が起きており、さらには秋口からコレラの大流行が江戸で始まり、洪庵はさらに忙殺されることになったのは言うまでもありません。
「緒方洪庵」の死に様
1863年7月25日、緒方洪庵は西洋医学所にある邸宅で昼寝から目覚めた直後に激しく咳き込み喀血。
そのまめ窒息死したと言われています。
享年54。
「緒方洪庵」の死に様の信憑性
塾生である福沢諭吉には寝耳に水の話で数日前に洪庵と会って様子を知っており、急病に驚いた事が伝えられています。
このため肺結核ではなく突発性の病、例えば心不全や肺塞栓症も充分にあると言えるでしょう。
また亡くなる直前の6月に江戸城西の丸が火事で焼失した際、和宮様の避難に同行。
一晩帰れずに翌日帰宅後に病床についたとされています。
この際に炎天下に長時間いて消耗したのが死因に繋がったと友人の広瀬旭荘が述べています。
但し死に至るまでの因果関係については疑問が残ると言えるでしょう。
まとめ
緒方洪庵の死に際は窒息するほどの喀血をしたと記述があることから、死因は総じて“肺病”具体的にはこの時代特効薬のなかった「肺結核」もしくは「肺がん」などと考えるのが一般的です。
しかし数日前に面会した福沢諭吉が洪庵に死の予兆を感じていなかったことから突発性の病の可能性も否定できません。
彼の晩年の功績は天然痘予防法の普及とコレラ対策に尽力したことに尽きるでしょう。
もし緒方洪庵がいなければ天然痘に対する牛痘種痘法の普及が遅れていたのは間違いないはずです。
コレラ、麻疹の大流行があった幕末で天然痘の流行を抑えられた事は大きくどれだけ多くの人命を救った事になるかは知る由もありません。