「東條英機(とうじょうひでき)」とは?
東條英機の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「東條英機」とは?簡単に説明
東條英機は昭和時代前期の軍人、政治家で、太平洋戦争開戦時の総理大臣です。
後に陸軍大臣、参謀総長の三職を兼任し、軍の主導権を握った東條は太平洋戦争を主導しますが、マリアナ沖海戦の惨敗を機に東條に対する反発の声が高まり、総理大臣の座も追われます。
やがて日本は敗戦し、東條はA級戦犯として処刑されます。
「東條英機」の晩年
総理大臣辞任後の東條は、限られた会議や集会に出席する以外は東京・世田谷の自宅に隠棲し、畑仕事に没頭します。
そんなところに1945年9月11日午後4時、マッカーサーの指令により東條を逮捕するため自宅に憲兵がやって来ます。
「生きて虜囚の辱めを受けず」を信条としていた東條は「準備するから」と言って憲兵を玄関に待たせ、自分の部屋に戻ってピストル自殺を図ります。
心臓を狙って発砲しますが弾丸は心臓を外れ、病院に運ばれた東條は奇跡的に一命を取り留めるのでした。
1ヶ月後にすっかりよくなった東條は退院し、1948年には被告として極東国際軍事裁判に出廷します。
そしてこの裁判で東條は一人軍服を着て出廷し、毅然とした態度で自衛戦争を主張する一方、自己弁護は一切行なっていません。
そして1948年11月4日、絞首刑の判決が言い渡されます。
「東條英機」の死に様
東條英機の絞首刑は1948年(昭和23年)12月23日午前0時1分に巣鴨拘置所内で執行されています。
死刑執行の前日、明日の執行を告げられた東條は「死ぬにはいい時期だと思います」と答え、国民に対する謝罪と平和の捨て石となり得たことと陛下に累を及ばさなかったことなどを告げています。
そして教誨師の浄土真宗本願寺派僧侶・花山信勝に影響を受けて浄土真宗に帰依した東條は絞首台に向かう前に花山に「喜んで死んでいける」と語っています。
東條は執行当日、土肥原賢二、武藤章、松井石根と共に連行され、最後にぶどう酒を一口飲み、4人で万歳三唱したとのことです。
そして東條はご機嫌な様子で刑場に消えました。
東條英機64年の生涯でした。
「東條英機」の死に様の信憑性
1948年12月23日、GHQは「戦犯」を収容した「巣鴨プリズン」において東條英機、広田弘毅、土肥原賢二ら7人の「A級戦犯」7人が絞首刑に処されています。
上述した浄土真宗本願寺派僧侶の花山信勝が看取っていることからも死に様の信憑性は確かでしょう。
まとめ
昔から批判されることの多い東條英機ですが、最近では再評価されている傾向もあるようです。
いずれにせよ、その人物を評価するためにはその人物をよく知ることが大事ですので、これを機に東條英機という人物を調べてみるのもいいのではないでしょうか。