「木戸孝允」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「木戸孝允」の死に際とは?日本の人物

木戸孝允は、明治維新の立役者の一人として活躍した人物です。

西郷隆盛や大久保利通と共に維新の三傑と呼ばれていますが、その晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

木戸孝允とは?

木戸孝允は、幕末の長州藩に生を受けます。

吉田松陰の門弟となり、江戸へ出て尊王攘夷運動に傾倒しました。

長州藩の尊王攘夷運動の指導者的な立場となり、藩政においても要職につきます。

そして1866年に長州藩を代表し、薩長同盟を締結しました。

江戸幕府が倒され明治政府が成立すると、政府官僚として五箇条の御誓文の起草に参加しました。

版籍奉還や廃藩置県などにより、近代国家の基礎築くために尽力しています。



木戸孝允の晩年

木戸孝允は晩年、大久保利通と政治的に何度も対立しています。

共に維新の三傑と呼ばれた二人ですが、意見の相違が目立つようになりました。

大久保利通は明治政府の主流派で、富国強兵をスローガンに掲げて国力増強に邁進します。

木戸孝允は岩倉使節団に参加して諸外国の憲法を研究したこともあり、憲法の制定を求めていました。

しかし、それは大久保には受け入れられません。

それにより大久保を批判することが多くなっていったのです。

ただし、明治政府の中心にいるのは大久保の方だったので、木戸の方が孤立しがちになりました。



木戸孝允の最期

木戸孝允は西郷隆盛が指導する西南戦争が勃発すると、その討伐軍を率いることを希望しました。

しかし、それは受け入れられず、有栖川宮熾仁親王が国軍の総司令官となります。

木戸孝允は元々、西郷隆盛に批判的でした。

木戸は明治天皇と共に京都に赴くのですが、そこで病が悪化してしまいます。

木戸は大腸がんを患っていました。

大腸がんが肝臓にも転移しています。

大久保の見舞いを受けた木戸は、明治政府と西郷隆盛の両者を案じる言葉を残したといいます。

そして、そのまま亡くなってしまいました。

享年45です。

木戸孝允と大久保利通の関係

晩年、木戸孝允は大久保利通と対立することが多かったのですが、決して仲が悪かったというわけではありません。

政治家としてはお互いに認め合っていました。

木戸孝允が台湾出兵に反対して参議を辞任した際には、大久保が何度も慰留しています。

また、木戸を明治政府に戻したい大久保は、伊藤博文や井上馨と共に木戸を大阪会議に招待しました。

そこで、立憲制の採用を協議したことで、木戸は参議に復帰しています。

木戸孝允をめぐる逸話

木戸孝允は幕末の頃、桂小五郎と名乗っていました。

なぜ木戸と名前を変えたかというと、長州藩の藩主から木戸姓を与えられたからです。

まとめ

木戸孝允は明治維新の立役者として活躍します。

明治政府においては近代国家の基礎を固めるために尽力しましたが、晩年は主流派である大久保利通と対立することが多かったといいます。

そして、西南戦争の最中に患っていた大腸がんが悪化し、45歳で亡くなります。

その際、明治政府と西郷隆盛を気遣う言葉を残したといいます。

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