かの「織田信長」の父であり、「尾張の虎」とも称される「織田信秀」はどのような最期を遂げたのでしょうか?
この記事では、「織田信秀」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「織田信秀(おだ のぶひで)」とは?簡単に説明
「織田信秀」とは、尾張国(現在の愛知県西部)の戦国武将、並びに戦国大名であり、三傑として有名な「織田信長」の実父です。
「尾張の虎」とも称されています。
もともとは小さい勢力であった「織田氏」の家督を相続した後、奪取した「名古野城(なごやじょう)」を拠点に、尾張国にて勢力を拡大していきます。
支配領域での経済基盤を築きあげた後、朝廷や室町幕府第13代将軍「足利義輝(あしかが よしてる)」とも接触し、献金や献上を通して中央権力とも関係を構築していきます。
「織田信秀」の晩年と最期
「織田氏」を尾張国における一大勢力に押し上げた「織田信秀」ですが、その後は「斎藤道三(さいとう どうさん)」や「今川義元(いまがわ よしもと)」を相手取り、敗北を重ねました。
天文13年(1544年)の「加納口(かのうぐち)の戦い」にて、「斎藤道三」に敗北しますが、後に和睦を締結します。
しかし、今度は「今川義元」の侵攻が始まり、城の陥落や支配勢力が今川方に寝返ったことで、次第に支配領域や勢力を削られていきました。
そして、「今川氏」に追い詰められていく中、天文21年(1552年)3月3日(諸説あり)に居城の末森城で倒れ、まもなく死去します。
享年42歳でした。
「織田信秀」の死に様の信憑性
「織田信秀」の死因は病死とされており、家臣の記録には「疫病」(=流行り病)と記されていますが、「脳卒中」や「心筋梗塞」など諸説あるようです。
没年没日に関しても、天文18年(1549年)説や、「定光寺年代記」では天文21年(1552年)3月9日、「箕水漫録」では天文20年(1551年)と記されており、諸説伝わっています。
「織田信秀」の葬儀と「織田信長」
「織田信秀」の葬儀は、親族や家臣をはじめ、300人余りの人が参列し、盛大に執り行われました。
そんな中、実子の「織田信長」は身なりも整えずに葬儀に遅刻してきました。
そして、抹香を鷲掴みにして、亡き父の位牌に投げつけたと云われています。
この行動の理由については様々な推察がされていますが、もともと悪評が立っていた「織田信長」を「織田信秀」は生前より後継者として推しており、親子の間には強い信頼関係があったようです。
まとめ
「織田信秀」は「尾張の虎」と称され、「織田信長」の実父でもある戦国武将、並びに戦国大名です。
尾張国にて、小勢力だった「織田氏」を一大勢力へと成長させました。
その後、敗戦を重ね、「今川義元」からの侵攻に追い詰められる中、42歳で病死しました。
死因については、「疫病」と家臣の記録に残っていますが、「脳卒中」や「心筋梗塞」との説もあります。
没年没日に関しても諸説挙げられています。