織田信長の弟として生まれた織田有楽斎。
茶の湯を愛し、戦国の波乱にもまれながらも戦国の世を生き抜いた彼の晩年や最期を紹介します。
「織田有楽斎」とは?簡単に説明
織田有楽斎は1547年(天文16年)、織田信秀の11男として生まれました。
元の名前は長益で、兄・信長とは13歳離れています。
有楽斎の前半生はあまり分かっていません。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、1590年(天正18年)頃に剃髪して「有楽斎」と名乗ります。
千利休に師事して茶の湯を学び、後には茶道有楽流を創始しました。
「織田有楽斎」の晩年
豊臣に仕えていた有楽斎は、秀吉の死後、関ヶ原では東軍について戦功をあげ、大和国に3万2000国の領地を与えられました。
その後も豊臣家に出仕を続け、大野治長らと共に豊臣の首脳的な役割を果たします。
叔父と姪の関係にある淀殿から信頼されていたと言われています。
しかし、大坂夏の陣の頃、徳川家康・秀忠へ「誰も私の言うことを聞かない。
もう大阪城にいても無意味」という内容の書状を送り、大坂城を退去しました。
「織田有楽斎」の死に様
大坂城を離れた有楽斎は、京都で隠居しました。
家督はすでに息子の頼長に譲っていたこともあり、その後は、趣味の茶の湯を楽しみながら余生を過ごしました。
茶道・有楽流を創始したり、後に国宝となる「茶室如庵」を建てたりしたのはこの頃です。
戦を離れて茶の道に生きた有楽斎は、1622年(元和7年)12月13日、京都で亡くなりました。
享年75。
「織田有楽斎」の死に様の信憑性
織田有楽斎は、信長の弟ということもあってか、信長や秀吉の死後は、様々な場面でその名前を見ることができます。
また、隠居後は茶道の流派を創始しています。
そのためか、彼の後半生について記した史料が多く、亡くなった年月日まで記録されています。
これらのことから、織田有楽斎の死に様についての信憑性は高いと考えられます。
「織田有楽斎」は臆病者だと笑われていた?
本能寺の変の際、有楽斎は信長の長男・信忠と共に二条城にいましたが、信忠は自害し、有楽斎は城を脱出しました。
このことを皮肉られ「織田の源五(有楽斎)は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」という歌が作られてしまいました。
簡単に言うと「信忠に切腹させておいて、自分は逃げた」という意味です。
まとめ
織田有楽斎の晩年や最期について紹介しました。
織田の一族は、自害・戦死・没落など、信長をはじめとして、壮絶な生涯や最期を遂げた者が少なくありません。
そんな中で有楽斎は、時の権力者から「織田」という血筋を利用され続けたものの、その後半生は、趣味の茶の湯にまい進し、戦国の終わりを見届け、戦の亡くなった世界で静かに生涯を終えることができました。
武士や戦国武将としての栄華とは縁遠いですが、1人の人間としてみると、幸せな人生だったのではないでしょうか。