日本の医療界の父「日野原重明」の散り際とは?
この記事では日野原重明の晩年と最期について解説します。
「日野原重明」とは?簡単に説明
その手腕によってどれだけ多くの人が救われたことでしょう。
戦前から医師として活躍。
『地下鉄サリン事件』の際には『聖路加国際病院』を機敏な判断で解放し、多くの命を救ったことで知られています。
また1954年に聖路加国際病院で人間ドッグを初めて開設。
この時代から予防医学について提唱しており、それが後に「生活習慣病」の予防と対策の提言にも繋がっていくことになりました。
110歳まで現役を目標に、自身の命の続く限り現場にこだわり続けたと言います。
「日野原重明」の晩年
百寿を越えても、精力的な活動は続けており、多忙な日々の連続だったと言われています。
その一方で年齢的なものもあり、晩年は年齢なりの体調不良が発現したと言っていいでしょう。
2014年には心臓エコーで大動脈弁狭窄症が発覚。
高齢のリスクから手術を回避、左心室に負担をかけないよう車椅子での移動が日常的になりました。
翌年にはサッカーの観戦中に気分が悪くなったことで検査を受け、心房細動が発覚しています。
心臓は多少トラブルを抱えていたもの、生活習慣病への提唱をしていただけあり、体重昔と変わらぬ60キロをキープ。
2016年には医療関係ではなく、趣味として俳句104首を纏めた本を出版するなど、公私に渡り、元気な姿を見せていました。
「日野原重明」の死に様
104歳の誕生日に合わせて俳句本を出版してから、わずか半年後の2017年の3月下旬に入院。
検査の結果は食事を摂取できないのは消化機能の衰えからだと判明します。
即退院、自宅療養に切り替えますが、延命治療を望まぬ以上、日に日に体力が衰えていくのは仕方のないことでした。
7月18日の朝、自宅で徐々に呼吸が弱り永眠しています。
105歳没。
発表された死因は老衰ではなく、呼吸器不全でした。
「日野原重明」の死に様の信憑性
17年3月下旬から内臓の消化機能が衰え、食事ができなくなった事は、自身がかつて所属、そして鬼籍に入った時点でも名誉会長を務めていた聖路加国際病院の「福井次矢」院長が記者会見で明かしています。
そして強制的に栄養を摂取しての延命治療は断ったことも明らかになりました。
亡くなる前日も自宅に往診に訪れており、福井氏の問いかけに喋ることはできなかったもの首を振って、自身の意思は伝えていたとされます。
まとめ
「日野原重明」は2017年7月18日の朝、次男夫妻に看取られて永眠しています。
死因は老衰ではなく呼吸器不全によるものでした。
消化機能の衰えで3月から食事が出来なくなっていましたが、強制的栄養補給による延命を拒んだそうです。
約3カ月自宅で療養し、静かに自身のその時を待っていたと言えるでしょう。