この記事では、浅香光代の晩年や最期を分かりやすく説明します。
浅香光代とは?
浅香光代は日本の剣劇女優で、舞台を中心に活躍しました。
10歳で新生国民座という舞台劇団に入団します。
その後、自分で一座を結成し、それまで規制されていた女剣劇の復活に携わりました。
浅草や渋谷で興行を行っていましたが、女剣劇はストリップに変わって人気を集めるようになり全盛期を迎えます。
一座は1970年に解散します。
また、野村佐知代との舌戦を繰り広げたミッチー・サッチー騒動が有名です。
浅香光代の晩年
浅香光代の名前が広く知られるようになったのは、ミッチー・サッチー騒動かもしれません。
ラジオで浅香光代がプロ野球監督の妻である野村佐知代を痛烈に批判したことに端を発し、一段騒動が巻き起こります。
浅香光代と野村佐知代の激しい舌戦をテレビのワイドショーが面白おかしく取り上げ、大きな話題となりました。
浅香光代だけではなく他の著名人も野村佐知代を批判したことから、連日テレビや週刊誌で報道されています。
また、1987年には浅草芸能大賞を受賞し、2008年には文化庁官賞、2009年には旭日双光章を受賞するなど、長年の功績が評価されました。
80歳を過ぎてからプロレス団体の旗揚げに参戦するなど、活動的でした。
プライベートでは、コメディアンの世志凡太と事実婚を30年以上続けていました。
最晩年は高齢になったこともあり、食事や入浴なども介助が必要な状態だったといいます。
浅香光代の死に様
浅香光代は2020年、都内の病院で亡くなります。
92歳でした。
すい臓がんを発症していて、入院していました。
その2年前には卒寿を祝う会が開催され、タレントや政治家など300人もの人がお祝いに駆けつけています。
その際には、元気な声でしっかりと挨拶していたといいます。
浅香光代の死に様の信憑性
浅香光代には、若い頃に産んだ二人の息子がありました。
相手は妻子があった大物政治家で、未婚のまま出産したのです。
浅香光代は若い時は恋多き女として知られていました。
そのうちの一人が葬儀では喪主を務めています。
インタビューで、母の人生何の後悔もなく大往生だったと語っています。
まとめ
浅香光代は晩年も元気に活動しており、長年の功績が高く評価されて旭日双光章を始めとする様々な賞を受賞しました。
そして、すい臓炎を患い都内の病院で亡くなります。
92歳でした。