令和、平成生まれの人にも知ってもらいたい命とは?
大島みち子の晩年の最期を解説。
この記事では大島みち子の晩年とその死に際に迫ります。
「大島みち子」とは?簡単に説明
新幹線開通、東京オリンピックに湧いた高度経済成長中の日本で昭和39年のベストセラーとなったのが「愛と死をみつめて」です。
昭和38年のクリスマスに発売された同書は河野実(マコ)と彼女(ミコ)の三年間に渡る文通のやり取り、そして彼女の思い出が綴られたものでした。
映画・テレビ&ラジオドラマ・歌謡曲の題材にもなり、反響を呼んでいます。
一躍時の人となった彼女でしたが、既にこの世の人ではありませんでした。
「大島みち子」の晩年
県立西脇高校二年在学中に軟骨肉腫に罹患。
入退院を繰り返すなか、阪大病院で浪人生の河野実(マコ)と出逢い二人は恋に落ちます。
しかし病魔は次第に彼女の躰を蝕みはじめていきます。
1962年彼女は二十歳で同志社大学に入学しますが、その年の5月に軟骨肉腫が再発。
さらに過酷な運命が彼女を待ち受けているのでした。
両眼の間と頭蓋骨付近まで成長した肉腫を取り除き、安全マージンを確保するためには、左の目を含む周辺の骨や頬骨、上顎骨までを切除する必要があったのです。
しかし現代医学の高度先進医療を用いても軟骨肉腫は寛解が難しく再発率も高いため、彼女の運命は風前の灯火となってしまいました。
「大島みち子」の死に様
若い女性には苛烈な運命となりましたが、彼女がその苦しみから解放されたのは1963年8月7日11時20分のことでした。
彼女の最期の場にいたのは母親で、「おかあちゃん」と微かに母を呼んだのが最期の言葉でした。
21歳没。
彼女の様子を見て、母親は喉の渇きを癒やすためにガーゼに水で湿らせにその場を離れています。
しかし戻ってきた時には既に息をしていませんでした。
「大島みち子」の死に様の信憑性
「愛と死を見つめて」ではマコとミコの三年間に渡る400通の手紙のやりとりが収められているとともに、それ以外の彼女の心境、家族から見た彼女の病状や様子も収められています。
マコが最期にミコとあったのが7月末。
鎮痛剤で意識が朦朧とするなかで懸命に生きる様子も描かれていました。
彼女が今生の別れとしてマコに告げた言葉は「元気になれなくてごめんね」であり、別れ際に何度も何度も繰り返したことも記されています。
まとめ
大島みち子は1958年高2の5月に軟骨肉腫を発病。
入退院を繰り返すも60年の11月には高校に復学できる程に病状は小康状態になりました。
高校卒業後の62年5月、同志社大学入学間もない頃に軟骨肉腫が再発。
7月に再入院したのち2度の手術を受けるも寛解には至りません。
63年8月7日11時20分、21歳の若さでこの世を去っています。