樋口一葉は、明治時代に小説家及び歌人として活躍した人物です。
樋口一葉の晩年と最期を紹介します。
樋口一葉とは?
樋口一葉は、東京の明治政府で下級役人をしていた樋口則義の次女として生まれました。
幼い頃から利発で向学心があったため、萩の舎に入門して和歌を習います。
小説家を志し、20歳の時に「かれ尾花」といった作品を執筆しました。
東京朝日新聞の専属作家であった半井桃水に師事しますが、二人の男女の仲を噂する声が上がったため桃水から離れることになりました。
その後、作家として大成し「たけくらべ」や「にごりえ」「十三夜」といった名作を世に生み出します。
樋口一葉の晩年
樋口一葉が代表作となった「たけくらべ」を文芸雑誌の「文学界」に発表したのは1895年から翌年にかけてです。
7回にわたって断続的に掲載されました。
吉原の廓に暮らす14歳の少女と僧侶の息子との淡い恋を描いた作品です。
また、博文館の文芸雑誌「文芸倶楽部」にも短編小説「にごりえ」や「十三夜」を発表しています。
特に「たけくらべ」は、森鴎外や幸田露伴、斎藤緑雨といった当時の名だたる作家たちに絶賛されました。
この成功により樋口一葉は文壇において不動の地位を築いたのです。
樋口一葉の最期
「たけくらべ」で一流作家の仲間入りを果たした樋口一葉でしたが、肺結核を患っていました。
当時、肺結核には治療法がなく、悪化していきます。
斎藤緑雨が森?外に依頼し、医師を樋口一葉の元に派遣しますが既に回復は見込めない状態でした。
そして、自宅において24歳という若さで亡くなります。
樋口一葉をめぐる逸話
樋口一葉は、経済的には非常に苦しい生活を送っていたといわれています。
父親が事業に失敗して借金を残して亡くなったためです。
樋口一葉は17歳で、母と妹を養わなければならない立場になりました。
針仕事や洗い張りのような仕事をして糊口をしのぎましたが、質屋を利用することも多かったといいます。
小説家を志したのも、萩の舎の姉弟子だった田辺花圃が原稿料をもらったことに触発されたからでした。
樋口一葉は作家として原稿料を得ますが、受け取るとすぐに借金の返済に回すといった生活だったようです。
荒物や駄菓子を売るお店を開いたこともあり、それの経験が「たけくらべ」に活かされています。
当時、女流作家は存在していましたが、そのほとんどは上流階級の出身でした。
教養を身に付けており、お金のために作品を執筆したわけではありません。
それに対して樋口一葉が小説を書いたのは、お金を得るためでした。
職業として作家という道を選んだのです。
樋口一葉の作家生活
樋口一葉は若くして亡くなっているので、作家として活動したのはわずか数年しかありません。
しかも「たけくらべ」や「にごりえ」といった名作は晩年の1年2か月の間に集中して執筆されています。
まとめ
樋口一葉は父を亡くし、経済的に苦しい生活を送ります。
その中で「たけくらべ」を発表し高い評価を得ました。
しかし、肺結核を患い24歳という若さで亡くなります。