戦国屈指の鬼畜?冷酷無比の謀将?
「宇喜多直家」に晩年や最後について解説します。
「宇喜多直家」とは?簡単に説明
宇喜多直家は1529年(享禄2年)、浦上家の家臣・宇喜多興家の子として生まれました。
浦上家中の争いの中、父と共に備前まで逃げますが、成長した後、浦上宗景に仕え、頭角を現します。
その後、舅や娘婿などの身内を次々と殺し、最終的には主君を国から追放し、大名の座まで上り詰めます。
「宇喜多直家」の晩年
その後、毛利と協力して、織田信長の命を受けて中国地方へ攻めてきた羽柴秀吉と戦います。
しかし、途中で毛利と手を切り、織田に臣従しました。
その後、直家は羽柴秀吉に協力し、毛利と戦います。
備中・美作などを治める宇喜多が織田軍についたことは、信長や秀吉にとって追い風となりました。
「宇喜多直家」の死に様
直家は病を得て、毛利との戦のほとんどを一族の弟の宇喜多忠家に任せていました。
そして、1581年(天正9年)、岡山城で死去。
享年53歳でした。
悪性の腫瘍が原因だと言われています。
まだ幼い息子・八郎(後の宇喜多秀家)が後を継ぎました。
「宇喜多直家」の死に様の信憑性
直家の死は、1581年(天正9年)2月14日とはっきりしていることや、「悪性の腫瘍」という死因が「備前軍記」に記されていることから、死に様についての信憑性は高いと思われます。
「宇喜多直家」の小ネタ
「宇喜多直家」を詳しく見て行きましょう。
後世の評価
宇喜多直家は、他家に娘を嫁がせた上でその婿を殺して、家を奪うなどの非道な行いが多く、「太閤記」を書いた小瀬甫庵からは、斉藤道三や松永久秀に並ぶ悪人と評されています。
また、毛利元就、尼子経久と並んで、中国の三大謀将とも言われています 4-2. 意外な一面 悪辣な振る舞いが有名な直家ですが、意外にも信仰心が厚く、領内の寺社を積極的に援助していたと言われています。
また、内政家としても優秀で、城下町に商人を呼び寄せて商業を奨励し、岡山を備前屈指の城下町にまで成長させました。
まとめ
宇喜多直家の晩年や最期について紹介しました。
暗殺や裏切りを重ねて大名にまで上り詰めた直家。
その振る舞いは悪人そのものですが、戦国時代の「下剋上」を体現した人物であったとも言えます。
非道な行いの一方で、領内統治に能力を発揮していたことから、善悪両面で優秀な人であったことは間違いないでしょう。