この記事では、竹久夢二の晩年や最期について紹介します。
竹久夢二とは?
竹久夢二とは日本を代表する画家の一人で、美人画の大家として知られています。
雑誌や新聞の挿絵を描き、人気となりました。
独特の美意識から生まれる美人画は夢二式美人と呼ばれ、憂いをおびた女性を描いています。
女性に関するスキャンダルも多く、妻や恋人を描いた美人画も多数あります。
絵葉書や封筒、浴衣などのデザインを描いたりもしています。
また、詩人としての一面もあり、竹久夢二が作詞した「宵待草」は大衆歌となりました。
竹久夢二の晩年
竹久夢二は晩年、アメリカやヨーロッパに行くことを夢見ていました。
大正時代には画家として絶大な人気を誇った夢二でしたが、昭和の時代に入るとその人気は下降していきます。
大正時代には大正ロマンと呼ばれた華やかな文化が花開きますが、昭和の時代には世界恐慌や国際紛争などもあり世情が不安定になっていったのです。
国威発揚が叫ばれる世の中にあって、夢二の絵は軟弱だといわれてしまいます。
そこで夢二はかねてからの念願であったアメリカやヨーロッパに行くことを決意します。
そして1931年、47歳の時に横浜から出航してアメリカへと旅立ちました。
アメリカに滞在中に個展を開きますが、アメリカでは受け入れられず絵は売れませんでした。
世界恐慌による不況の影響もあったようです。
アメリカを離れ今度はヨーロッパにやってきた夢二は、ドイツやチェコ、オーストリア、フランス、スイスなどを巡ります。
ヨーロッパでもヒトラーが率いるナチスが台頭するなど世情は不安定で、ここでも夢二は失望を味わうこととなりました。
竹久夢二の死に様
1933年、竹久夢二のはイタリアから日本に帰国します。
夢二は結核を患っていました。
結核は当時、不治の病として恐れられていた病気です。
そして1934年、長野県にある療養所において亡くなりました。
享年49です。
竹久夢二の死に様の信憑性
竹久夢二が結核を患ったのは、ヨーロッパに滞在していた時と考えられます。
異国の地での生活が体には負担だったのかもしれません。
日本に戻った夢二の入院先を手配したのは、文芸仲間であった正木不如丘とされます。
ここで夢二は最後に「ありがとう」という言葉を残し亡くなりました。
まとめ
竹久夢二は晩年、アメリカやヨーロッパを旅していました。
そして結核にかかり、49歳で亡くなっています。