「坂本九」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「坂本九」の死に際とは?日本の人物

「坂本九(さかもときゅう)」とは?

坂本九の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「坂本九」とは?簡単に説明

坂本九さんは世界的な名曲「上を向いて歩こう」のほか、「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」など数多くのヒット曲で知られる歌手です。

歌手以外に俳優やタレント、司会者としても活躍したマルチな芸能人であり、「九ちゃん」の愛称で大人から子供まで親しまれました。

奥さんは女優の柏木由紀子さんで、彼女との間には二人の娘にも恵まれています。

ところが、1985年8月12日に起きた飛行機事故に巻き込まれ亡くなられました。



「坂本九」の晩年

坂本九さんは43歳という若さで飛行機事故により急逝されています。

坂本さんは亡くなる年の1985年にレコードレーベルをファンハウスに移籍しています。

そして5月22日に移籍後初となる第1弾シングル「懐かしきlove-song/心の瞳」を発売し、再び歌手活動を本格化しようとしていた矢先でした。

また、亡くなる3日前には中村八大さんのコンサートで「もう一度歌手としてやり直したい」との意志を表明していました。

坂本さんは8月11日夜にクイズ番組の収録のために広島入りし、翌12日に収録を行なっています。

予定では収録後に直接車で大阪入りする予定でしたが、急遽「歌謡スペシャル」の司会の代役を務めることになり、いったん帰京します。

収録終了後、翌13日に元マネージャーの選挙応援として大阪・羽曳野市の事務所開きに駆けつけるため、8月12日夜の羽田発伊丹行き日本航空123便に搭乗することになります。



「坂本九」の死に様

1985年8月12日、羽田空港を離陸した日航ジャンボ機123便は乗客乗務員計524名を乗せて伊丹空港に向かいます。

当日はお盆入り前の夏休みだったため、123便はほぼ満席の状態でした。

午後6時56分頃、123便は群馬県多野郡上野村高天原山の山中(御巣鷹の尾根)に墜落します。

のちに報告された事故原因によると、事故は後部圧力壁の破損による本体・垂直尾翼・操縦系統の損壊で飛行性能が低下し操縦機能が喪失したことが原因と推定されています。

犠牲者数は520名で生存者はわずか4名でした。

坂本九さんの死因は「墜落死」あるいは「航空事故死」とされています。

詳細な死因は人によって異なりますが、それはどこに座っていたかによって変わってくるそうです。

当時の座席はモノクラス制でしたが、ジャンボ機には有名人などが利用する二階席が少数座席あり、坂本さんも二階席の右列前方から4番目に座っていました。

そこは尾根に激突した個所である飛行機前部で、遺体の損傷が最も激しい個所になります。

坂本さんの遺体の損傷も相当激しかったようですが、身につけていたペンダントと首の太さが決め手になり身元確認できたそうです。

「坂本九」の死に様の信憑性

未曾有の大事故で連日マスコミによる大々的な報道が続いたため、記憶されている方も大勢いらっしゃるでしょう。

関係者の証言違いやワイドショーなどの憶測による報道などによって事実と異なる点も多々あるかもしれませんが大筋は事実に基づいているでしょう。

まとめ

坂本九さんの次女の記憶の中で、坂本さんが事故当日の朝に空を見上げて、「今日は雲(の流れ)が速いから飛行機には乗りたくないな」と言っていたという証言が悲しみをさらに増幅させます。

元々、坂本さんは乗る予定ではなかった123便ですが、いくつかの偶然が重なっての搭乗だったので無念でしょう。

そういえば、明石家さんまさんもこの同じ便に搭乗する予定だったところ、運良く回避したという話も有名です。

タイトルとURLをコピーしました