二枚目俳優が陥りやすい晩年の苦悩に苦しんだのでしょうか?
この記事では根津甚八の晩年と最期について迫ります。
「根津甚八」とは?簡単に説明
名前の由来は歴史好きな方ならば、ピンとくるでしょう。
真田十勇士の1人、真田幸村の影武者を務めたとされる根津甚八からつけられました。
これは名字が同じであることから唐十郎が主宰する状況劇団の研究生時代に四谷シモンから提案されてついた芸名となります。
5年目に初主役を演じて以降劇団の看板俳優として活躍しました。
状況劇団退団後はテレビ・映画に活躍の場を移し、82年には「さらば愛しき大地」で日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。
黒沢明監督に評価され「影武者」「乱」と重要な役を演じています。
「根津甚八」の晩年
2001年に右目下直筋肥大に罹患。
この病気は役者生命だけでなく、日常生活にまで大きな影響を与えました。
まぶたが垂れ下がり、さらには物が二重に見えてしまう症状に悩まされます。
役者の命とも言うべき顔にメスを入れて完治を試みましたが、複数回の手術を経ても複視は改善されませんでした。
このため俳優業を縮小しなくてはならなくなります。
その後04年には人身事故を起こしたため、俳優業をさらに休止することとなりました。
負のスパイラルは続き、晩年は苦難の連続だったと言えるでしょう。
「根津甚八」の死に様
既に2010年には俳優業を引退しており、人身事故から公の場に出ることが著しく減少。
近況を知るにはオフィシャルブログ程度しか手段がありませんでした。
そのため訃報は何の前触れもなく唐突に事務所から発表されたと言っていいでしょう。
2016年12月29日に69歳で亡くなっています。
16年の11月から体調が芳しくない状態が続き、容態はかなり悪かったようです。
死因は肺炎ですが、原発の病気があったかは不明となっています。
「根津甚八」の死に様の信憑性
46歳の時に痛めた腰椎の影響で晩年は歩くことにも苦心、生き甲斐ともいえる俳優業を右目下直筋肥大で縮小、死亡人身事故による活動自粛と負のスパイラルが続いたことで、09年にはうつ病に罹患してしまいます。
症状は重く体温調整もままならないほどで、苦難の日々が続いていたのは間違いないでしょう。
亡くなる前年には多くの作品に出演した間柄の石井隆監督の要望に応じる形で一度きりの俳優業復帰、役者への未練を断ち切ったとコメントを残しました。
まとめ
根津甚八は2016年12月30日の昼過ぎに都内の病院で息を引き取りました。
69歳没。
死因は肺炎によるものでした。
原発性の病気があったかは不明。
16年11月から体調は芳しくなく、かなり危険な状態が続いていたようです。