「南方熊楠(みなかたくまぐす)」とは?
南方熊楠の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「南方熊楠」とは?簡単に説明
南方熊楠は和歌山県出身の博物学、民俗学における近代日本の先駆者ともいえる学者です。
他にも関わった分野は生物学、細菌学、天文学、人類学、考古学など多岐に及んでおり、「歩く百科事典」ともいわれています。
特に生物学における粘菌の研究では変形菌の新種「ミナカテルラ・ロンギフィラ」をはじめ、多くの新種を発見したことで有名ですが、それでもどこにも所属せず在野の学者として生涯を過ごした人物です。
「南方熊楠」の晩年
晩年の熊楠は「南方熊楠植物研究所」の挫折や長男・熊弥の病気発症と看護で、心身とともに疲弊していきます。
彼の念願だった植物研究所の設立資金は寄付金で集めたものの、このために弟・常楠からの生活費の仕送りが打ち切られ、兄弟は仲違いします。
さらに長男・熊弥が17歳の時に統合失調症を発症します。
学者としての父を尊敬していた熊弥でしたが、発作を起こすと癇癪を起こし父の標本を引き裂いてしまうのでした。
愛する長男の発病は熊楠を一変させ、大好きだった酒も一滴も飲まなくなります。
こうした心労が重なり視力も衰えますが、手足に代わる妻の松枝と娘の文枝の協力によって、亡くなる年まで研究を続けることになります。
「南方熊楠」の死に様
太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)の冬、体調が悪化した熊楠は12月29日の午前6時30分に74歳の生涯を閉じています。
手には妻がかけたハカマカズラの念珠があったそうです。
死因は萎縮腎という腎臓の病気でした。
死の前日、「天井に紫の花が一面に咲き実に気分が良い。
頼むから今日は決して医師を呼ばないでおくれ。
医師が来れば天井の花が消えてしまうから」と言い残しています。
熊楠が亡くなった日の夜、彫刻家・保田龍門によってデスマスクがとられ、熊楠の遺した蔵書と原稿など研究資料のすべては妻の松枝によって保全され、後世に伝えられました。
「南方熊楠」の死に様の信憑性
熊楠は自宅で亡くなっており、周りには妻の松枝や娘の文枝、闘病生活中の息子・熊弥の面倒を見ていた野口利太郎などがいたことから死に様の様子も詳しく伝わっており、信憑性は高いでしょう。
亡くなる前日の夜中には、熊楠が「野口、野口、文枝、文枝」と娘の文枝と熊弥の代理で野口利太郎を大声で呼んで、二人の子供に対する思いを最期に告げたということも伝わっています。
まとめ
偉大な業績を多く残した南方熊楠ですが、意外にもその功績に反して彼の知名度はまだまだ低いようです。
熊楠に関する研究は今後さらに進むようですので、機会があれば調べてみてください。