「太田道灌」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「太田道灌」の死に際とは?日本の人物

室町時代の武将「太田道灌」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「太田道灌」とは?簡単に説明

「太田道灌(おおたどうかん,1432年~1486年)」は扇谷上杉家の家宰として、「享徳の乱・長尾景春の乱」などで負けることなく善戦して、江戸城・河越城などの築城で「城作りの才能」も発揮しました。

太田道灌は農兵を動かす「足軽軍法」を駆使し、扇谷上杉家(上杉定正)の隆盛に貢献しましたが、山内上杉家の上杉顕定らの讒言(ざんげん)を受け、文明18年(1486年)に主君・定正に相模国糟屋の館で暗殺されました。

道灌は兵法・戦の能力に優れていただけでなく、学問・文学・和歌の道にも精通していて「花月百首」の歌集も残しています。

「太田道灌」の晩年

「太田道灌」の前半生は、1455年(享徳4年)に鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺して始まった「享徳の乱(1455~1482)」を抑えるために捧げられました。

1476年には山内上杉家で長尾景春が謀反を起こしますが、道灌は「長尾景春の乱」も1480年には鎮圧しています。

太田道灌の晩年は山内上杉家の長尾景春の乱鎮圧から始まり、扇谷上杉家と山内上杉家の内紛の調整にも力を尽くします。

しかし、道灌の名声と影響力があまりにも強くなってしまったことで、主君の上杉定正から警戒されて、山内上杉家からも敵視されるようになっていきました。

扇谷上杉家の実質的な主導権を握る太田道灌のことを快く思っていなかった主君・上杉定正は、山内上杉家の上杉顕定の讒言を真に受けて、文明18年7月に道灌を糟屋館に呼び出して暗殺したのです。

「太田道灌」の死に様

「太田道灌」は文明18年7月26日に、主君の上杉定正から相模国の糟屋館(現在の神奈川県伊勢原市)に呼び出されて、風呂に入って上がった直後に暗殺されました。

太田道灌は風呂で入浴を済ませて脱衣場から出た瞬間に、上杉定正の命を受けた曽我兵庫(そがひょうご)にいきなり刀で斬りつけられて殺されたのです。

風呂上りの無防備な時なので道灌に暗殺を避ける術もなく、死ぬ間際に「当方滅亡(扇谷上杉家滅亡)」と自らの無念の気持ちを込めて言い残したとも伝えられています。

享年55歳。

「太田道灌」の死に様の信憑性

「太田道灌」が文明18年7月に、主君である上杉定正に騙されて呼び出され、その居館(糟屋館)の風呂場周辺で斬殺されたことは史実としての信憑性があります。

定正の命令を受けた曽我兵庫が風呂上りの道灌を暗殺した内容については、「太田資武状」などに記載があります。

定正が有能な家臣であった道灌を暗殺した理由として、「道灌が下克上を起こすことを恐れた説」「扇谷上杉家を弱体化させる山内上杉家の謀略に乗せられた説」「家中に元々道灌に対する不満が強まっていた説(道灌が山内上杉家に謀反を起こそうとしていた説)」などがあります。

まとめ

「太田道灌」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「太田道灌」は、文明18年7月26日(1486年8月25日)に主君の上杉定正に呼び出された糟屋館の風呂場(その周辺)で暗殺されました。

「太田道灌」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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