この記事では、「黒田清隆」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「黒田清隆(くろだきよたか)」とは?簡単に説明
「黒田清隆」は日本の陸軍軍人、政治家であり、第2代内閣総理大臣を務めた人物です。
幕末期では薩摩藩士として、薩長同盟締結や戊辰戦争の北陸戦線、函館戦争では参謀として新政府軍の指揮を執りました。
明治を迎えてからも、北海道開拓や西南戦争で活躍を果たします。
しかし、後に酒に酔って船の大砲を撃ち、誤って民間人を殺してしまうなど、酒による失態や怒気を発することが多くなり、泥酔して妻を殺したという事実無根の報道もされました。
そして、醜聞が世に広まり名声に傷がつくも、第2代内閣総理大臣に就任するのでした。
「黒田清隆」の晩年と最期
「黒田清隆」は薩摩閥の重鎮でしたが、醜聞により人望を失い、同郷の人は離れ、浮いた存在として晩年を過ごしたと伝えられています。
不平等条約改正交渉の頓挫で内閣総理大臣を辞任した「黒田清隆」は後に枢密顧問官となります。
1892年(明治25年)には第二次伊藤内閣の逓信大臣となりますが、翌年から健康状態に支障をきたし、仕事にも影響が出るようになりました。
1895年(明治28年)に枢密院議長になりますが、数年後の1900年(明治33年)、脳出血により、享年59歳で息を引き取りました。
「黒田清隆」の死に様の信憑性
醜聞により、薩摩閥と疎遠となってしまった「黒田清隆」ですが、反対に旧幕臣と親密な関係を築いていたそうです。
とりわけ、函館戦争の際、助命嘆願をして命を救った「榎本武揚(えもとたけあき)」は外交分野などで重用し、「黒田清隆」の葬儀委員長も彼が務めました。
一説には、薩摩閥の人々が「黒田清隆」のことを敬遠していたため、「榎本武揚」が葬儀委員長に選ばれたとも云われています。
旧幕臣「榎本武揚」との関係
函館戦争の形勢が新政府軍に傾くと、「黒田清隆」は「榎本武揚」に降伏を勧め、「榎本武揚」はこれを受諾します。
「榎本武揚」には厳罰を求める声もありましたが、「黒田清隆」は頭を丸めるなどして助命を嘆願しました。
「西郷隆盛」へ「榎本を殺すのなら、自分は新政府を辞めて坊主になる」と言ったという逸話も残っています。
結果、「榎本武揚」には謹慎処分が言い渡されました。
まとめ
「黒田清隆」は日本の陸軍軍人、政治家であり、第2代内閣総理大臣を務めた人物です。
晩年は醜聞により、同郷の人々から遠ざけられながら過ごしたそうです。
大臣や枢密院議長を務めますが、1900年(明治33年)に脳出血が原因で59年の生涯を終えました。